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以前池田首相がフランスに行ったとき、フランスからトランジスターのセールスマンだと揶揄されました。今回アメリカの大統領トランプはアメリカの軍需産業のセールスマンだといえるでしょう。日本や韓国で武器買い付けの注文を受け、アメリカでの軍需産業の株はあがりっぱなしなっています。中国では30兆円もの商談をものにし、軍需品でないにしても、アメリカにとって、対中国の赤字を少しは減らすことができそうです。
北朝鮮の脅威を煽り、溜まっていた在庫の、一世代旧式の武器をはかし、最新式の武器と入れ替えるために、トランプをアジアに派遣したとも考えられます。銃による何十人もの犠牲者が出ても、銃の規制をしないように、もはやアメリカの産業は軍需とAI抜きでは成り立ってはいけない状態になっているのでしょう。世界の警察だと自負して、毎年あちらこちらに軍隊を送り込んでいるのは、このアメリカの巨大軍需産業を倒産させないためにやっているのかもしれません。
多分今度も多くのミサイルを買うのでしょう。説明書にも効果100%と記載されているでしょう。実験ではそうだが実戦では果たしてそのとおりなのかはわかりません。これらの武器はAIと衛星から送られる電波で操縦されるものが多いということですが、北朝鮮が日本海上空で核爆発を起こすと、日本の全部のコンピュータが作動しなくなるといいます。イージス艦も無用の長物と化します。AIが麻痺すると何もできないのが現代兵器です。このような脆いものを中核に置いての戦争というものは、福島の原発のように単に水に浸かったということで大惨事になるような気がしてきます。ただただ北朝鮮の金正恩が糖尿病ではやく安らかに死ぬことを願うばかりです。
ここでも「泣いて馬謖を切る」の馬謖がでています。とかく才気あるひとは自分の才気だけで世の中どうにでもなるのだと思い込みすぎているので、始末に困ります。曹操の家来に揚修という頭のいい人がいました。劉備との戦いで、不利になったときです。曹操は鶏肋(ニワトリのあばら骨)のスープを飲んでいました。夏侯惇が「夜間の合言葉」を聞きに来た時、思わず「鶏肋」とつぶやきました。夏侯惇はさっぱり意味が分かりません。揚修がこう解説します。「鶏肋は食べようとすると肉がないが、捨てようとするには味わいがあります」すなわち戦場であるこの漢中の地は鶏肋であり、曹操はやがてこの地から撤退しうるだろうと言いました。まさしく曹操の気持ちでしたが、機転のききすぎる楊修を、勝手に撤退を指示した理由で、首を切り、殺しました。反対に劉備の息子・劉禅はそんなに切れる頭をもっていなかったので、かえって人生を全うしたといえそうです。降伏後、司馬昭に宴会の接待を受け、「ここでの暮らしは安楽で、蜀を思い出すこともない」と笑っていたそうです。このような男では野心がないということで相手からは安心されたでしょう。頭が良すぎて、疎まれ、殺されるよりは、少々おむつが悪いと思われて警戒されないほうが、長く生きられるようです。案外劉禅は無能を演じることのできる大物かもしれません。「大賢は愚かなる如し」
牛乳は体に悪いというのは一時はやりました。私は若い頃牛乳を飲んでもなにもなかったのですが、最近は冷えた牛乳を飲むといつまでも胃の中でゴロゴロして、気分がわるくなります。歳をとるごとに牛乳を分解する酵素が少なくなってきているような気がします。マーガリンやバターも昔はたっぷりパンにつけて食べていたものですが、マーガリンは変形プラスティックだと知り、今は食べません。バターも食べ始めはおいしいのですが、これが口全体に広がると何だかこれも気分が悪くなったりします。体調は変化し、嗜好も変わってきます。この世に恒常普遍ということはないような気がしてきます。
スナック菓子を食べている子供は切れやすいという風評がありました。校内暴力の原因はコーラの飲みすぎと、菓子類の食いすぎで、カルシウムの吸収を阻害して、イライラする子供が増えているのだというもっともらしい説を唱えている教育評論家もいました。私もテレビなどにおどらされる人間ですから、このようなものをすぐ信じてしまう傾向があります。納豆がよければ、納豆、ワインがよければワインと、私も付和雷同する人間です。テレビもそうですが、ネットの世界でも、玉石であり、玉もあれば、単なる石もあります。騙されないためには話し半分に、きくしかないようです。全面的に信用するようではお人よしで、いくらかは不信感をもっているほうがいいかもしれません。このような態度ではプラシーボ効果は期待できませんが、騙されて体が治ったとしても、その確率は少ないのですから、奇跡などは信じないで、わかる範囲で納得するほかありません。
中国と日本の歴史を比べて、日本人は甘ちょろいと城野は言っています。中国の戦争は異民族の戦争のようなものであり、勝者が一方的に敗者を根こそぎ排除しています。親戚縁者やそれに関連する全て人間を根絶やしにするのです。今の共産党政権でもこの体質は変わりません。習近平体制が壊れるとその一派がすべた排除されるのですから、習近平はどんな手段を使ってもこの体制を維持しようとします。漢民族が多数を占めるといっても、多民族国家であり、その間の軋轢は厳しいものがあります。反対に日本は、アイヌがいたとしても、ほとんど吸収されて、単民族国家であり、戦いが起きても、頂点にいる人とその縁者が最悪の場合殺されか、それか島流しにされるかです。その人に恩顧を受けた人にまで被害が及ぶことはまれです。日本の民衆は上が代われば素直にそれに従って、年貢や税金を払っていくだけです。日本人は政治意識がないとよく非難されますが、かえってそれが日本の平和をもたらしているのかもしれません。上のことはあずかり知らぬという無関心さが、権力意識の強い人たち間の争いを、ヨーロッパ、中東、中国のような弱肉強食といった制限のない闘いにしないで、ほどほどのところで手を打ち、あとは和歌でも作り女をくどくことに専念したということになっている、というのが城野の主張です。
「泣いて馬謖を切る」という有名な言葉があります。軍規のために、有能な馬謖を切る羽目になったという諸葛孔明の嘆きもありますが、劉備が死ぬ前、孔明に「馬謖は言大にして行いは小なり。肝要なところで使ってはならぬ。うまくいっているときはいいが、危ない時は使うべからず」といっていたのに、実戦経験のない馬謖に街亭の守備に当たらせ、それが失敗だったことがわかり、劉備の人間を見る目の確かさと、反対に自分の目のなさを思い知ったということで、大いに嘆き悲しんでいるのです。劉備はほとんど泣いているばかりの将軍ですが、50歳半ばの劉備が30前の諸葛孔明を「三顧の礼」をもって軍師として迎えるのを見ても、単なる街のヤクザとは違うスケールの大きい人物だとわかります。
私は一人で店をきりもみしているので、「部下が自然とついてくる人間的魅力」といわれても、部下がいないのですから、「将の器の磨き」ようがありません。リーダーかつ使用人ですから、昔も今も将来も大きく発展することはないでしょう。
「40,50にして聞こゆるなくんば、これまた畏るるに足らざるのみ」
全く私は「畏るる」足るような男ではありません。世の中には「畏るる」足ると思い込む男が多くいて、身もこごるような思いです。私のように自覚しているものは余り問題はないのですが、「畏るる」足るような男でないのに勝手に「畏るる」足るような男と思っているのは本当に始末におえません。若い男なら、そのような態度をとろうとも、「後生畏るべし」ということもありうるので、このような生意気も若さゆえに許されますが、評価が定まりかけた中年や、定まった老年者にこのような態度をとられると、せめてみんなの邪魔をしないでくれといいたい気持ちになります。