[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
著名人との対談集です。演歌歌手の石川さゆりも俳句を作っています。
「肩車神輿の波にながれゆく」
石川さゆりは熊本出身で、裏日本の出身ではないことを知ってびっくりしました。
関口宏は年をとればとるほど、父親の佐野周二に似てきています。親の七光りでデビューした頃は何とも頼りないタレントでしたが、歌手の西田佐知子を嫁にした頃から自信がついたのでしょう。司会者として地位を築いていきました。その分歌手の西田は家庭に引きこもり、テレビには出なくなりました。今一度西田佐知子が「アカシヤの雨の・・」と歌うのを聴いてみたいものです。
柔道家の山口香は今や筑波体育大学の准教授になっています。
八代亜紀も熊本出身です。歌だけではなく絵画でも才能があり、横浜で個展を開いたとき、小泉首相が訪れたということもありました。また美空ひばりにも可愛がられたそうです。
北島三郎も77歳になり、今年の紅白は辞退しています。最近高齢者の車事故が多いので、サブちゃんのように高齢者は免許を「辞退」しないといけないように思われます。それか高齢者には自動運転車でないと許可しないと法律で決めたほうがいいかもしれません。
香山リカ、精神科医でテレビにもよく出ています。精神を病んでいる男がこのような美人の精神科医に出会うとどうなるのでしょうか?
坂田明、広島大学の水産学部だということで、ミジンコの研究をしていたと自己紹介しています。ミュージッシャンは余技ということになります。
小林綾子、おしんの子役で一躍有名になりました。
三遊亭円歌、カール・ブッセの「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」の詩を「あなあなあな」と吃音して客を笑わせていました。
最後に寅さんの妹役倍賞千恵子が出て「社会に出たら、勉強よりも人間としてどうかということが、一番大事なんじゃないかって・・・」まともなことを言っています。
私も69歳になり、後何年生きられるかわかりません。私の興味も生きた人間よりも死んだ人間に向かっています。将来生きられるだろう時間と、過去過ごした時間を比べてみると断然過去過ごした時間のほうが長いので、おのずと眼は過去に向かわざるを得ません。将来には希望を見出せませんが、過去には思い出が詰まっています。
この本の最初にでているのは横綱の栃錦です。1990年に亡くなっています。64歳です。相撲取りでは私は「松登」が好きで、どんな相手でもこの松登は「ぶちかまし」という戦法をとっていました。単にドッと突っ込むだけで、よくいなされてゴロンと土俵で転がされていました。しかし解説の神風親方の、真っ向勝負の逃げない松登の相撲は賞賛に値するとよく言っていました。子供ながらにもこの松登の相撲に心酔し、生き方も松登のような生き方を志しましたが、世の中そのような単純な戦法ではらちがあかないもので、キミマロの言うところの「登りきってもいないのに下り坂」のような状態になっています。1990年には池波正太郎67歳、藤原寛実60歳、私の歳よりはやく死んでいます。
1991年には毛沢東の第二夫人の江青も自殺しています。77歳です。私も
毛沢東語録の赤い豆本を買って、「造反有理」などの言葉を知りました。
1992年には将棋の真剣師小池重明が44歳で死んでいます。この人、広島にも来て、広島の強い人もこの小池に何十万円もとられています。単に将棋だけが強くても世の中うまく渡れません。反対にアマチュアでは将棋が強ければ強いだけ悲惨な人生が待ち受けていると思ったほうが間違いありません。私の友達の、県代表にもなった人も、借金をかさね、広島の地から逃げ去りました。この年には将棋界の重鎮大山康晴も69歳で死んでいます。正に私と同じ年です。死ぬ間際までA級に留まった棋士は過去にも未来にも出てこないでしょう。ただし未来にもプロ棋士という職業があればという話ですか。この年には作家の中上健次46歳、ガンで死に、死刑囚の永山則夫48歳で絞首刑で、女優の太地喜和子は溺れて死んでいます。永山の死ぬ前は大暴れしたそうです。過激派の一人が証言しています。風船オジサンという人もいました。この年太平洋のどこかで行方不明になりました。
1993年にはハナ肇、田中角栄、逸見政孝。逸見政孝はアナウンサーですが、ガンで内臓の大部分を摘出し、ほどなくして死にましたが、果たしてこのような手術でよかったのだろうかと考えさせるものでした。
田中角栄が平成5年12月なくなりました。その7年後の平成12年、竹下登は76歳で亡くなっています。田中は75歳、竹下は76歳で、ほぼ同じ年齢でなくなったことになります。田中は今でも人気はありますが、竹下ほど影の薄い内閣総理大臣はいません。指三本の宇野総理は問題外ですが、竹下の内閣不支持率は今の韓国の朴槿恵大統領の不支持率と同じくらいでした。国会答弁も何を言っているのか判らない答弁を繰り返し、真意が汲み取れないことが甚だしい。暴力団に手助けされて、内閣総理大臣になったというのがもっぱらの噂です。右翼の「褒め殺し」をやめさせるために、広域暴力団とつながりのある人物に仲介を頼んだことになっています。竹下の側近の秘書も自殺し、後援者も一人自殺しています。検察庁の追及を阻むために青木秘書は自殺し、竹下に害が及ばないようにしたということになっていますが、謀殺されたのではないかという噂もあります。竹下の周りは淀んでいて明るさはありません。最初の妻も舅との関係で悩み、自殺しています。田中派から分離独立したことは明智光秀にたとえられ、そこを右翼に突きまわされました。街宣車で「日本一金儲けがうまい竹下さんを内閣総理大臣にしましょう」とスピーカーで毎日宣伝され、これをやめさすためにヤクザの手を借りたということになっています。最近のアメリカ大統領選で、中傷合戦終始しましたが、トランプはどんなことを言われても動じることがなかったようですが、竹下はこの「褒め殺し」にほとほと神経が参ったようで、円形脱毛症にもなっています。このような神経の細さでは政権を長く維持できるはずがありません。田中だったらどうであろうかと想像すると、多分直接この右翼の親分にあって、「よっしゃ、わかった」といって札束を渡すでしょう。いずれにしても金権体質は同じようなものですが、田中には明瞭性があり、竹下にはそれと反対の陰湿性があって、それゆえに毛嫌いされたのであろうと思われます。トランプも田中も分かりやすいということで親しみやすいのでしょう。ある面ヒットラーも小泉もこの系列につながるものかもしれません。すべからく政治家は表では明るく、内では陰険でなくてはならないようです。竹下のように表でも陰険では人々はついていきません。
913年「古今和歌集」が出たことによって、「ひらがなの公的な」誕生といっています。そうはいっても純粋にひらがなだけで出来ているわけでなく、「変体仮名」という万葉集につかわれた漢字の崩し文字も混じっています。つまりひらがなの「50音図」だけではなく、同じ音であっても別の漢字の崩し文字もあったということです。万葉時代、平安時代にかけて、日本語の発音は今の「50音図」以上に多くの発音があって、今では同じ音に見えますが、当時は漢字を換えてちょっとした発音のニュアンスの違いを別々の漢字を当てはめて表現しています。たとえば藤原不比等が生きていた当時の発音ではこの名前は、「ぷでぃぱらのぷぴてぃゅ」と発音したそうです。まるで韓国語のようです。言語学には800年説というものがあって、800年も経つと同じ言語であっても、様変わりしてもともと一つであったとは思えなくなるというものです。現代で源氏物語の原文を注釈なしで読める人はあまりいないでしょう。100年前の明治の文献でも読みづらくなっています。文字の伝来は百済の僧とかがもたらしたものですから、日本語の発音を漢字に当てはめようと努力しても自らは朝鮮人ですから、朝鮮語の発音と混合していたのではないかと、私は思っています。それか先進国人である渡来人たちが朝廷の中枢を占め、おのずと彼らの朝鮮語なまりの日本語の発音が主流になったのではないかと思ったりしています。数千年前は日本語も朝鮮語も同根で、緩やかに別れていったのではないかともとれます。同じ膠着語系で、今でも語順は同じです。近隣同士ですからお互い影響はまぬがれないものです。
山口謠司よるとひらがなの広まりはこのようなことによってだろうと推測しています。
「自然という無限に対する人の世の有限性、そしてどうしようもない心の寂しさや虚しさを書こうとするとき、借り物の漢文では表すことのできない日本人ならではの表現が必要になる。仮名が男手から、女手になってひらがなを生み出すには、政争に巻き込まれて苦しむ氏族たちと、女たちのどうしようもない心が必要だったのではないかとおもうのである」
このタイトルそのものが「地口」です。副題の「江戸の町は犬だらけ」も語調がいいのでこれも地口だといえましょう。この「犬だらけ」で思い出すのは渥美清の寅さんの啖呵売の言葉です。
「結構毛だらけ猫灰だらけ、けつのまわりは糞だらけ」
「四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水臭いとときた」
「信州信濃の新そばよりも、あたしゃあなたのそばがよい」
「あなた百までわしゃ99まで、ともにシラミのたかるまで」
「見あげたもんだよ屋根屋のふんどし、たいしたもんだよ蛙の小便」
「四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水、粋なねいちゃん立小便」
渥美清が死んではや20年にもなろうとしています。寅さん映画では腹から笑えましたが、今はそのようなことは全然なく、芸能界に喜劇人がいないのではないかと思っています。今面白いといえば綾小路キミマロくらいなものです。
この本に立ち戻ると、伊勢屋とはいまの三重県の人々が江戸開城のおり大挙して江戸に入り、倹約を旨として商売に精を出し、大いに繁盛したということで、伊勢屋と名のつく商店が多くありました。越後屋よりも数が上回っていたそうです。稲荷神社も江戸には無数にあり、犬も将軍綱吉の生類哀れみの令によって増えに増えたとありますが、中野に巨大な犬小屋を作り、白米をあたえたものですから、脚気になってバタバタと死んでいったそうです。
明治に入って洋犬が入ると、西洋かぶれが銭湯に洋犬を連れて行って、それを洗っていたり、座敷のある食べ物屋に洋犬を連れ込み、周りの者たちの顰蹙をかっていたという記録もあります。今で言うところのハロインの馬鹿騒ぎみたいなもので、どの時代でも流行にさといが、周りの環境を読めない人々が多くいるということがわかります。