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おおむね「病んでいる」のは韓国であると、言ってくれています。ヒットラーか誰か知りませんが、何度もうそを言い続けると、それが本物のように思えてくるということがあります。韓国もそれを願ってうそを言い続けているのでしょうか?今の大統領の告げ口外交で、日本への悪口ばかりを言っていますが、彼女の父親・朴正季熙はこう言っています。
「私は貧農の息子で、学校に行きたいなと思っても行けなかった。日本人がやって来て義務教育の制度を敷いて、子供を学校に送らない親は処罰するといった。日本人に叱られるというから学校に行けた。その後、師範学校、軍官学校に進み、そこの日本人教官が、お前よくできるな、日本の市谷の士官学校に推薦するから行けと言って入学、首席で卒業し、言葉も完璧でなかったかもしれないが、生徒を代表して答辞を読んだ。私は相対的に白人がやった植民地支配に比べて日本は教育ひとつとってみても、かなり公平な水準の強育政策をやったと思う」
当時の欧米の植民地主義者は「愚民政策」を採り、教育を施すということを一切していません。日本では6番目の帝大をソウルに「京城帝国大学」(1924、大正13年)、7番目に「台湾帝国大学」(1928、昭和3年)を作っています。大阪や名古屋はその後です。教育ばかりだけではありません。農業やダム建設、その他インフラ整備もやっているのです。台湾ではいまだに日本人に感謝していますが、韓国ではその反対です。
なぜなのか?それは韓国における「小中華思想」があるのではないかと、季久惟は推察しています。童話で言うところの、虎の子分である狐の立場で、中国に近い朝鮮はたとえ狐であっても、他の遠くの国よりよりすぐれているという思い込みです。猿のような日本人が中国の威光のかさに着る朝鮮人に対してあれやこれと命令するのは心外というよりは無礼ではないかということです。
韓国の学者が漢字ももともと韓国が作ったものだという説を発表しています。これにはさすが中国も怒り心頭で、安重根の銅像建設のあの協調的な関係が危うくなっているようです。
安易に「狂気」など使うべきではありません。本当の統合失調症になれば、落語などしゃべれません。談志は言外に「天才」の意味を含ませているのでしょう。天才ほど乱発される言葉は見当たりません。将棋でもちょっと強いと天才だといわれます。ところがいまや将棋も囲碁もコンピューターソフトにかないません。コンピューターから見ると将棋の天才もただの人です。いまのところ落語界でそのようなコンピューターソフトはないようですから、談志のように「狂気」などをちらかして、自分の天才度を吹聴している輩が多いように思われます。伝記など見ると、世に名の残る人には変わった人が多い。社会生活がまるでなっていない人も多く見受けられます。しかしそういった人は自分の風変わりな点を隠そうとして、一生懸命に平凡人を装いますが、おのずと非凡なものがにじみ出て、人々を唖然とさせます。最後には本物の統合失調症になった人も居ます。もともと平凡なものが、天才を真似しようとすると、何もかも大袈裟になり、嫌味の点が多々見られます。その癖、チャンチャンとカネを溜め、死ぬときには何軒もの家を持ち、残った家族を路頭に迷わすことなく、常識人として死んで行くようです。
かつての人類学はアフリカのジャングルに入ってゴリラやチンパンジーを観測したりニューギニアやアマゾンの原住民と一緒に住んでフィールドワークするといった学問のイメージがありました。いまやDNAを解析したり、同位性炭素原子をつかって年代測定をしたりして、大いに様変わりしているようです。白人種が進化のトップを走り、次に黄色人種、最後に黒人種であると堂々と欧米の人類学者が言っていたときもありました。これから導きだされた優生学から、金髪碧眼色白やそれに近いアーリヤ人種以外は焼却処分をするといった狂気の時代もありました。その結果がアウシュビッツであり、広島長崎の原爆です。この血まみれた人類学はこの反省から、現世人類はすべてアフリカの地溝帯に住んでいたものが世界に広がったもので、人種に関係なくみな兄弟であるという説が説かれています。DNAからもそのような検証がなされています。今のところこの説が真実としてまかり通っていますが、科学の進歩や政治的な変化によってはどうなるかはわかりません。全ての真理は暫定的なもので、仮説かもしれないのです。
パプアニューギニアの原住民は動物性蛋白をあまり摂取していないのに筋肉モリモリです。はっきりとわからないようですが、腸内細菌によって、たんぱく質をとらないでも、作れるような仕組みができているのではないかと考えられています。
色盲も人は一定度います。普通、このような人は淘汰されるのではないかと考えられますが、いまだにそうならないことの理由を「採食行動」に見出しています。3色見える人よりは、2色しか見えない人のほうが「明度視」がはっきりしているということによります。例えば緑の葉っぱの中で緑色した虫がいる場合、2色しか見えない人のほうがよりはっきりと虫の形を見ることができるのです。
女性の口紅でもっとも男の気を引くのは赤の口紅です。猿のメスが発情すると尻が真っ赤になりますが、猿とあまり変わりがない人間も赤に性的興奮をおこすメカニズムが備わっているのだとの説明です。
「おばあさん仮説」というものがあり、子を生めなくなったおばさんが長生きするのはなぜかという問題に対して、娘の子の養育を手助けするためだという説です。それに対して「おじさん仮説」というものはありません。すみやかに死んで欲しいというのが本音のところでしょう。
髪の毛から、黒人、白人、黄色人を比較したところ、黒人と白人は似たもの同士で、黄色人だけ遺伝的にかけ離れているということがわかりました。考え方によっては黒人と白人はただ肌の色が違うだけで、ほぼ同じ人間、黄色人種だけが変わっているということになり、直毛で太目の毛は進化の頂点に立つといってもいいのかもしれません。そうかといって、かつての欧米人のように自分たちが最高であると言ってしまっては、またアウシュビッツや原爆の繰り返しになります。髪の毛くらいで自慢してはいけません。
アメリカインディアンに血液型でO型がほとんどであるということは、氷河時代アジアからアリューシャン列島を渡ってアメリカに入った人間が80人くらいで、それらがO型であったので、そうなったという説があります。80人もすごいですが、この80人でのちのち何千万人インディアンができたというのもすごいことです。
YouTubeで見ると、御茶ノ水駅を出て、すぐカドに昔は二階建ての洋食屋があって、セロリのスープを飲んで感激したことがありましたが、今は薬局のような建物が建っています。明大通りを下っていくと、左側に黒い主婦の友の社屋がありましたが、今はなくなっているようです。半世紀も経つと日本では昔のものがほとんどなくなっているようです。昭和20年代の映画では、御茶ノ水の崖っぷちに小屋を建てて、浮浪者が住んでいるシーンも見られます。またその当時の映画では周りに高いビルなど建っていないものですから、ニコライ堂の尖塔がよく映っています。小津安二郎監督の「麦秋」での喫茶店シーンはセットでしたが、喫茶店から見えるニコライ堂のショットを得るために実際の喫茶店から撮影しましたが、監督が気に入らないで、ニコライ堂のまじかで撮ったようだと解説しています。戦争の傷跡も映画には残っています。爆風で石垣が崩れて道路にはみ出しているのが写っています。多分明治の高官たちのお屋敷の石垣だったのでしょう。
学生運動盛んなおり、明大前のアスファルトははがされ、学生たちの武器になっていましたが、今ではGoogleのストリートビューで見ますと、きれいに舗装され、立て看板など一つもありません。明大通りを下って、道を渡ってその角に新刊書のビルが建っていましたが、今もあります。それから右に行くとすずらん通りに入り、その通りと大通りの間に古書店がひしめき合っていました。当時は木造が多かったと思いますが、今ではほとんどビルになっています。それにしてもすずらん通りの古書店は少なくなっているようです。
私は辛うじて、親の残してくれた財産で、他人に雇われてペコペコすることもなく、客にはペコペコしながら少ない収入で暮らしています。間違いなく「下流老人」です。年金も国民年金ですから少なく、商売しても大した儲けはなく、極力消費を抑え、休みには寝床で寝転がって、不必要なエネルギーの発散を防いでいます。趣味と言えば将棋で、毎日インターネット将棋に参加しています。これ自体には金はかかりませんが、通信のプロバイダー料が高いのに腹が立ちます。世界的に見ても日本の通信料は高すぎる。私のような貧乏人からカネをふんだくってのうのうと贅沢三昧をしている人もいるのでしょう。
この本を読むと、日本国民のほとんどがはっきり言って「下流」であり、私が流川で夜に見る、一見中流風の背広族も「偽装中流」ではないかと思われてきます。サラリーマンの給料もこの何十年間上がることはなく、暫時下がりつつあるようです。おまけに派遣社員が多くなり、ボーナスなどない人間が多くなっています。日本では「向こう岸理論」アメリカでは「トリクルダウン理論」があって、富めるものがまず富んで、そのおこぼれが貧者に回ってくるというものがあります。この理論ほど馬鹿げた理論はありません。個人もそうですが、会社でもいくらトヨタが大儲けしようが、下請けにはそのおこぼれが回ってこないばかりが、原価を下回るような発注を出してくるそうです。会社もそうですから個人などは死ぬほど働かされるのでしょう。と言いつつも、トヨタにはトヨタの言い分があります。世界で勝ち抜くためには価格競争をしないと生き残れないということです。このような絶望的な競争から外れるためには他がまねのできない独創的なものを作る必要があります。しかしこれこそもっとも困難きわまるものです。誰もができるものではありません。これができるくらいならもはや下流にくすぶってはいません。やはり下流に留まっているということは頭が悪いのかもしれません。
最後に須田は日本自体が「下流」に向かいつつあると断言しています。この前、マグロのせりで香港の業者に競り負けたように、やがて日本は資源獲得に中国やその他の後進国に競り負けていくと予言しています。アメリカは将来食料不足になると予想して、農業を強化していますが、そういう事態になったとき、金のない日本に下ろすよりはもっと金のある中国に下ろすことになり、日本には餓死者がでるほどまでなるかもしれません。