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商売も思わしくなく、擲銭法で占ってみました。10円硬貨6枚用意し、その中で一枚だけ新品の硬貨を入れと置き、手の中で振って、それから一枚ずつとりだし、下から縦に並べます。10円と書かれたものを裏とし「陰」、その反対は表「陽」とします。今回の私の結果は、下から裏表裏表裏裏出て、下から二番目が新品になっています。本卦が「雷水解」出て、変卦が「雷地与」となりました。下から二番目が新品の硬貨で変容を意味しますから、表が裏に変化し、下の三つが「水」から「地」に変わり、全体では「雷地与」となります。
「雷水解」の意味は、雷が水の上で光っているのですから、原初の地球上生命誕生の光景かもしれません。雷の光が水の中に透過してアミノ酸を作り出しているイメージです。「解」とは「解く」という意味です。光子が水の原子に当たり、それを分解し、何か新しいものが出てくるということです。これを不振な商売に当てはめてみますと、雷鳴、稲光は世情の大変革を表しているのかもしれません。それが淀んでいる私の商売の「水」に当たり新しい変化が訪れるだろうという予言です。それか、「解」とは解散の意味もあり、このような劇的な変化を遂げている状況ではもはや旧態とした商売は維持できないということかもしれません。いづれにしても元のままでいられないということです。
で、変卦の「雷地与」とは、「予約」という合成語あるように、「予め」という意味です。この本では「準備」と解説しています。変化を遂げるが、その変化を確実にするためにはそれなりに用意周到な研鑽と努力が必要であろうということになります。それに「与」とは喜びの意味もあります。淀んだ水が流れ出すと、清水が沸き起こり、この岸辺にキャンプファイヤーもできることになり、人が集まって賑わい、商売繁盛、私も喜びでいっぱいになるということです。何とありがたいお告げでしょうか。これを成就するためにはなお一層の頑張りが必要になります。果たして私には頑張りが続くのか心配ですが、そうしないといつまでも金の儲からないことにブツブツ言うことになってしまうでしょう。
今年再訳されての出版です。いまだに偏見や宗教的対立や人種間や国家間の対立が絶えていない証拠です。ますますひどくなっているかと思えるほどです。
1761年トゥールーズで「カラス事件」というものが起こりました。プロテスタントのカラスの息子が自殺しました。トゥールーズの大半はカトリックです。カトリックの住民がカラスが自分の息子を絞め殺したと騒ぎ立てます。カラスの息子はカトリックに改宗しようとしたので、父親がそれをさせずとして殺したのだというのです。裁判になり68歳のカラスは車責めの刑になり、殺されました。これに対しヴォルテールはこの本を書き、冤罪を広く世間に示し、カラスの名誉を回復させ、国王ルイ15世から、貧困に落ちていた妻と子に3万6千リーヴル、それにカラスの無罪をいい続けた女中に3千リーヴルを出させることまでできました。
「あらゆる迷信の中で、もっとも危険な迷信は、自分と意見が違う隣人は憎悪すべきだという迷信ではなかろうか。同胞を嫌悪し、迫害することにくらべれば、イエスの臍や、イエスのペニスの包皮や、聖母マリアの乳や衣服を拝むことの方が。よほどまともである」
バングラデシュで日本人がテロ集団によって殺されました。このような集団に対しても「憎悪」をもってはいけないのでしょうか?
ヴォルテールの言っていることは、大多数のものが数をたのんで少数者を迫害したり憎悪したりしてはいけないということです。テロ集団も少数者ですから世界の大多数から迫害されているのかもしれません。その理由から極端なはねっかえりをするのでしょう。これに対して憎悪で迎えあうとますます憎悪の輪廻が形成されます。こうなってもまずいし、少数者に対してこのようなことはやめてくれと言ってもやめないだろうし、まったく難しい問題です。
日本の近くには「意見」の違いすぎる国々があります。イライラすることもありますが、憎悪しては話もままなりません。このヴォルテールの寛容論の原題は「Traite sur la tolerance」になっていて、toleranceには我慢辛抱という意味もあるのです。我慢することに拠って花が咲くということもあります。何事も切れては第二次世界大戦の二の舞になるということです。寛容論とは相手のためだけではなく、自分のためにでもあるのです。
孔子は晩年になって易経を何度も読み返し、「竹簡」のとじ紐が3度も切れたとあります。仕官もままならず、鬱々と過ごしていたのでしょうか?注釈書のようなものも書いています。後継者としてたのんでいた顔回も早死にし、子路は衛の大夫になったが政変によって殺され、つぼの中に塩で漬け込まれ、膾となって孔子のものとに送られてきました。これ以後孔子は膾を食べなくなったそうです。
しかし孔家は現在まで存続し、孔子の子孫が何十万人もいます。紀元前500年くらい前からですから、紀元後600年頃からはっきりした天皇家と比べても、1000年以上も前から継続しているということになります。司馬遷の「史記」で孔子のことをこう書いてあるそうです。
「天下には君主から賢人まで多くの人がいる。(その多くは)生きているときには栄えるけれども、死ねばそれで終わってしまう。孔子は布衣(官位のない平民)の身であったが、十余代(の子孫)に伝えられ、学者はこれを崇拝している。天子、王侯を始め、中国で六芸をいう者は、孔子に基準を求めている。至聖といわねばならない」
このようなことを知ると、たとえ六本木ヒルズに居を構え、何十億の収入のある人間を見ても、たいしたことはないんだと自分を慰めることができます。それよりも悪い意味で幼児殺害者の宮崎勤のほうが何倍も存在感のある人間だということがわかります。成功者を研究することはあまり興味がもてませんが、敗残者には妙に気が引かされます。
中国には筮竹の名人・司馬季主というものがいました。仕官もせず、市中に埋もれ、占いを生業にしていた人です。中国にはこうした「聖賢」のパターンが多いところです。三顧の礼をされても自由がいいのだといって、金のない生活を楽しんでいるようです。
デフレスパイラルで物が売れないものでものがますます安くなるという時代がありました。今は原材料が値上がっているので、納豆でも100円近くのものが多くなりました。しかし基本的には安値傾向が続いているように思われます。貧乏人の私にとっては安いことはいいことです。しかし低収入ということは、お金が入ってこないことであり、自営業者や雇用者ということに関係なく、両者とも収入低減化のスパイラルに陥っているということです。結局は貧乏人に負担の多い消費税を課し、法人税や金持に対する所得税の軽減化がこのような社会を招いているのです。生活保護費に批判が集まっていますが、税制による生活保護費のようなものをもっとももらっているのは大企業家か、大金持ちです。このような優遇政策は即刻やめてもらいたいものです。山本譲治の言うように適正な値段でないと適正な食品は買えないというのはわかりますが、そのような値段では貧窮者の生活がなりたたないというのが現状です。たとえ冷凍食品の餃子に豚肉など入っていなくても、値段が安ければ買うしかないのです。おまけに昨今の若者は幼少の時から、安いものや、コンビニに入りひたって食生活をしてきたのですから、地鶏の肉を食べてもまずいというのに決まっています。ましてやだしのきいた惣菜など他の保存料や着色剤がないと満足しないでしょう。
ブラーマン、イサイ・ヴェーラークル、マルットゥヴァルの三つのカーストがインドの古典音楽を担っているそうです。ブラーマンはカースト制の最上段にいて、演奏家にもそれらの音楽のパトロンにもなっています。イサイ・ヴェーラークルは寺院付きの楽団で、「音楽職能カースト」で、その中には日本での出雲阿国のように女性で歌を歌ったり踊りを踊ったりしていた集団もいました。マルットゥヴァルは床屋のカーストで、音楽もやる人もいます。しかしあまり高く評価されていません。プロとしてはイサイ・ヴェーラークルで音楽を職業にしているのですから、必然的に技能も高いのでしょう。しかしアマチュアであってもブラーマンやマルットゥヴァルも他の職業の可能性を捨てて音楽に集中しているのですから、プロ以上になっている人もいるのです。いまだにインドのカースト制度はしっかり残っているのですから、カーストの違いで一緒に飯を食うことすらできません。同じインド音楽であっても、それを演奏する人によって分断されています。インドは中国についで高い経済成長を続けている国です。やがて大国になるだろうと予想されていますが、弱点はこのカースト制で、中国における少数民族問題と同じように、カースト間の紛争が先鋭になるのではないかと思われます。音楽の中でもカースト間の侮蔑、無関心、批判など渦巻いているのです。