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イギリス人の主食はパンであろうと我々は考えますが、はっきり主食という概念はなくて、しいていえばジャガイモが主食になるのではないかと、イギリス人自身が心もとなく答えています。屋台で売られているフライアンドチップスのチップスがイギリス人にとって「ごはん」になるらしい。イギリス人の主婦はいかにパンを薄く切るのが自慢の種になっています。紙のように薄く切るのです。日本のように5枚きりの食パンはありません。紙のように薄く切るのは何かをはさむためです。チーズやハムやキャベツやトマトなどはさんで、まるで韓国の焼肉を食べる時の葉っぱのようなものです。中国での餃子の皮のようなものです。中国では餃子を主食と言っている人もいるようです。
総じてイギリス人は旨く食べようと努力をしない人のようです。野菜はなんでもくたくたにゆでるだけです。肉は塩コショウをしてオーブンに入れて焼くだけです。図書館で教授の弁当を見たら、値札のついたソーセージとトマトしかはいていなかったということを林は報告しています。日本の主婦のように凝った弁当など作りません。夏目漱石がロンドンでノイローゼになったというのは、賄いつきの下宿屋の食事にあったのではないかと、この本を読んで私はそう思いました。実際林望の友達で賄いに不満をこぼしている人がいるからです。毎日大豆の煮たものとソーセージがあるだけです。
しかしこのような料理であっても、久しぶりにイギリスに来て、それを食べると懐かしさとあいまって、うまいと感じられると林望は言っています。
このようなことがあってもおかしくないと思わせる小説です。何もないところから想像力をかきたてて、物語を作るのは難しいが、漱石のようなよく知られた人物に想像的な人物を絡まして、物語を進行させるのは少しは楽かもしれません。そうは言っても、何十巻もある漱石全集をある程度読んでいないと、底の浅いものになるでしょう。「我輩は猫である」の文体がそのようになったのは、ある若い女性が、演説口調の文体の方が論理的になり、言文一致体の文章よりは「思想の伝達」が出来るのではないかという内容の手紙を漱石に送ったからです。この娘を漱石に紹介したのは、教え子の寺田寅彦であり、若くして死んだ寺田の妻がもともと近所で聡明なこの娘を知っていたのです。寺田寅彦もこの小説のモデルで出ています。
漱石は間違いの字を書くことが多かったといっています。この「漱石」の字も漱の字を欠のところを部首の名前で言えば「ぼくづくり」で書いています。清水義範の小説を読むと、国語の先生に解説されるような気分を味わえます。単に楽しめるだけではなく、教養も得られて、一粒で二度おいしいといったところでしょうか。
パリを攻撃したテロリストもオサマ・ラーディンも元はと言えば、アメリカが養成した戦士といえるでしょう。ソ連を封じ込めるためにアフガニスタンでアメリカは武器を供与して、イスラムの戦士を訓練していたのです。CIAなどが秘密裏にやっていたのです。時の大統領レーガンは見て見ぬフリをしていました。アメリカは人様の国でも自分のいうことを聞かないと暗殺を仕掛けたり、その国の政府を転覆させたり、ミサイルを撃ち込んだりします。特に石油など資源が絡んだりすると、かつてインディアンがあきれたほどの貪欲さが出てきます。いまだに植民地主義者の気風が残っているのでしょう。とくに石油利権に関わっているブッシュ親子の大統領時代、この中東での暗躍には目に余るものがあります。はじめはイラクのフセインにはアメリカを武器援助などして、イランと対抗させていましたが、イラクがクウェートの国境を侵すとそれを口実にイラクを攻撃し、フセインを捕まえて、死刑にしてしまいます。国際法などあってもアメリカにとって意味のないものです。やがてイラクに多くのアメリカ資本が入り、アメリカにとって都合のいいようにとしようとします。やがてソ連と戦っていたイスラムの戦士がアメリカや西欧に対しても刃向かうようになります。これら列強の国々が中東の石油を強奪するのを許せなくなったのです。おまけに第二次世界大戦終了後に先進国の都合でユダヤ人をシナイ半島に入植させ、イスラエルを建国させ、その地に住んでいたパレスチナ人たちを追い出したことの遺恨もあります。そもそもの原因は大航海時代にさかのぼり、西欧の列国が勝手にこの地を自分たちの都合のいいように分割してきたことによります。しかももっとさかのぼれば十字軍までたどり着くことになります。キリスト教とイスラム教の兄弟宗教戦争ということになるでしょう。われわれ仏教徒や儒教の精神に影響を受けたものは、これらの兄弟戦争にへたに加わってはいけません。第三次世界大戦は中東から起こるという予言はシリアの内戦や難民やソ連、アメリカ、イギリス、フランスとイスラムとの戦いを見ると当たるのではないかと思われます。
埴輪の起源説には、「日本書紀」の垂仁天皇時、弟の倭彦の葬式で、生き埋めされた家来たちの悲惨な状況を見て、人間に代わり埴輪に変えたものだというものがあります。人は一人で死んでいくのは寂しいと思うのでしょう。現世で一緒に世を楽しんだ人々と、またあの世でも維持したいと思うことは権力者だけでもなく誰しも思うことでしょう。秦の始皇帝も兵馬俑を作り、あの世での権力の維持に努めています。しかし殉死させられるものはたまったものではありません。乃木希典の妻も夫の従って刀を心臓に突き立てて殉死しましたが、本当のところはどうだったのでしょう。イスラムの自爆テロも形を変えた殉死といえましょう。憎き敵共を道連れに、あの世に行き、また同じように自爆テロを繰り返すのでしょうか。憎しみの連鎖は歴史の常態であるようです。日本でも例外ではありません。中国では反日映画を作り、韓国では慰安婦で日本を非難しています。
塚田良道のよる埴輪起源説は高句麗の古墳壁画によると解説しています。その壁画には食事の世話をする女性立像、馬に乗って狩りをしている図、力士像や音楽を奏でる楽師などが描かれています。5世紀、日本では大いなる技術革新が起こり、陶器でも大型も容器も作れるようになり、それが埴輪に移植され、高句麗の古墳壁画にも影響されて、陶器で馬や牛や兵士や楽師等々作ったという説です。いずれにしても死んでからも今まで過ごしてきたような生活をしたいという思いがあるのでしょう。今日でも焼く前に棺桶の中に故人が好んでいたものを入れています。
マイケル・ハリスは手打ちのタイプライターとコンピューターのキーボードの両方とも経験した人物です。歴史にはある発明によって大いに変わることがあります。その都度昔がよかった、いな今からのほうがよくなるだろうという議論がなされています。まず文字が出来たことにより、ソクラテスは以前の物事を暗誦していたことから、文字で書き残すことで何かが失われているのではないかと、最初に考えた人です。ハリスによるとソクラテスは、文字に頼り、「口承を捨てることによって脳を腐らせて」いるのではないかと考えたようです。それから、グーテンベルグが印刷機を発明したことによって、本がたくさん印刷されると、本を書き写したりすることがなくなるので、「知的怠惰」が生まれ、「勤勉ではなくなり、精神は安っぽくなるだろう」と当時の「有識者」は嘆いています。で、今回のパソコン・スマホの常時接続のデジタル世界とアナログの世界の状況は、以前にもまして「不一致の規模は未曾有のことだろう」とハリスは強調しています。
ハリスは大学生時代英文学講座でミルトンの詩を暗誦させられました。何十年経っても切れ切れにその詩の文句は出てきます。今ではグーグルで検索すれば、一瞬のうちに全文が出てきますが、暗誦することに拠って、何か心の血肉になるのではないかと言っています。
「暗記する内容が暗記する人に所有されるということと、本人の構造の成分になるということ。暗記によって、それは自分が生きるという進行中の経験の一部になる。・・・暗記され、内面化された作品は、服用された薬のような地位に達することもありうる」
今では何もかも検索ですましてしまいます。脳はその検索の方法を記憶しているだけです。知識は外にあって、脳の中にはないのです。知識は脳を通過するだけで、何ら痕跡をとどめるものではないようです。ましては「薬」のようにその人の体質をかえるようなものではなくなりました。知識のすべてが平板化し、根性の入った知識など見当たらなくなるでしょう。