三木のりは三木のり平の息子です。昭和の喜劇王である三木のり平には多くの資料が残されています。息子は丹念にそれをまとめ上げ、写真も多く載せています。1999年74歳で亡くなっています。今私の歳です。
三木のり平は妾の子で、歌舞伎座の裏あたりで置屋をしていたということですから母は芸者だったのでしょう。正妻には娘が三人いて、歌舞伎座の売店で帽子を売っていたそうです。鼻のでっかい子がよく小遣いをもらいに来ていたと森繁久彌が言っています。娘たちとのり平の歳の違いは20歳くらいあり、第二の母親のような感じだったのでしょう。置屋ですから、普通の子供なら夜は帰っておいでとなるのですが、反対に夜になるとどっかで遊んでおいでとなり、よく歌舞伎を見ていたそうです。小さい時から歌舞伎を見ているのですから芸達者になります。これも一種の英才教育です。今冬季オリンピックをやっていますが、これを見ても小さい頃からカネをかけて、訓練すれば、才能ある者は必ずものになるということがわかります。日本もポチポチとメダルが取れるようになったのも、豊かになり、子供にカネをかける余裕ができたからです。我々団塊世代ではそんなにカネをかけられた子供はいなので、東大に入ったくらいでよくやったと言われましたが、今からはオリンピックのアスリートやらピアノやらバイオリンやらバレーダンスのコンクールで世界一位になる人も多く出てくるようになります。こうなってこそやがて日本は文明国になったと言われるでしょう。羽生結弦選手も中国では大人気で、このような柔和な青年が多く出て、かつての第二次世界大戦中の、「バカ野郎」と怒鳴り散らす「鬼」のような憲兵のイメージを拂拭させるようにしてもらいたいものです。威嚇は小心の表れであり、柔和は寛容の表れです。プーチン殿にはよく考えていただきたい。