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この本の結論。宗教とかイデオロギーはバイアスそのものであり、一方では宗教裁判、いっぽうでは粛清が起こります。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を見てもわかるように、宗教の違いから争いが絶えません。ナチ政権、スターリンを見てわかるように何千万人と人が殺されています。上巻では、統計グラフを多く提示して、第二次世界大戦以降、犯罪も減り、殺人も減り、飢餓や栄養失調も少なくなり、識字率も上がり、人類は幸せになっているということを示しています。要するに「エビデンス」=事実を詳細に取り上げ、その説明の裏付けをしているのです。つまり、15,6世紀から始まった科学が人々の蒙昧さを解放したということによるのです。科学もバイアスではないかという人もいますが、科学の考え方は、これら「エビデンス」があっているかどうかで暫定的に真実だと言っているのであって、もし違うエビデンスがあるなら、躊躇なく改変する柔軟さがあります。宗教なイデオロギーの頑迷さとひどく違うものです。科学には理性があり、人間はよく間違うものだと知っており、それ故にエビデンス=事実を精査し、地味ながら事実を積み上げ、何と宇宙の開闢から138億年もたっているということまでわかるようになりました。これも今のところの真理であり、もっと科学が進むとこれも変わるかもしれません。スティーブン・ピンカーは科学だけのことを言っているのではなく、科学的思考法、事実に即して物事を判断することが大切だと言っているのです。そのためには理性が必要であり、自由な考え方ができるヒューマニズムの体制も必要だと言っているのです。
古代ローマのふろに関する歴史的解説かと思いましたが、戯曲でした。作家はブルガリア人です。この三つの戯曲も共産党政権下の役人たちの、民衆に対する不条理な取り扱いを揶揄しているようです。1989年に共産党政権が倒れ、現在ではユーロの一員になっています。ブルガリアもバルカン半島の一国であり、第一次世界大戦から、ドイツ、ロシア、トルコの強豪国に挟まれ、あっちについたりこっちについたりして戦いを続けています。第二次世界大戦後、ロシアに侵入され社会主義国になったのです。
「バス」ではバスの運転手が明日の朝食のパンを買うために路線から離れ、とうとう彼の母親のいるところまで行こうとする、その道中のバスの客同士の利己主義的戦いを面白く描いたものです。モウパッサンの「脂肪の塊」に似ていると解説にありました。
「スエードのジャケット」では、羊業者に毛羽たたしいジャケットの毛を刈ってもらったばっかりに、羊を一匹か飼っていることが役所に登録され、税金の督促が来て、その間違いを正そうとするのですが、お役所仕事でなんともなりません。仕方なく、その「スエードのジャケット」を羊に見立てて、公園で草を食わしたりしていると、精神科医がやってきて、事実がわかります。慌てた役所は羊一匹を書類上から消すために、長年勤続者の慰労パーティで架空の羊一匹を料理して食べたということにして、ごまかしたという芝居です。日本の役所にもありそうなことです。前総理大臣の夫人の名前を削除したようなことと同じことです。
「ローマ風呂騒動」では休暇から帰ってみると、自宅から古代ローマの遺跡の風呂が出てきて、考古学者、レスキュー隊員、古物売買業者、不動産屋などが入り乱れて大騒ぎになるという芝居です。
時にはジャンルの違ったものを読むこともいいことです。今私はコロナ休業で暇ですから、気晴らしとして大いに役立つということになります。
第二次世界大戦が終わっても、バルカン半島では諸民族の闘争が続き、ほんの20年前に沈静化したとあっても、凄惨な殺し合いの記憶が生々しく残っていることでしょう。街中でいろいろな民族が入り交わって住んでいて、この本の証言にも出ているのですが、34歳の女性が他の民族の19歳の男性とコーヒーも一緒に飲んだこともあるという親しい関係にあったものが、いざ戦いになると、その若い男にレイプされたそうです。普段では商店主の主人だったりする人が戦争ではお得意様を殴ったり、切りつけたり、殺したりしています。顔見知りでこのようなことが起こるなんてまさしく地獄です。このような経験をした人はなかなかその憎しみが消えないでしょう。小さなことで再び動乱が起こるかもしれません。日本では想像もできないことです。そうはいっても、朝鮮との関係もあり、関東大震災では朝鮮人の虐殺も起こっています。大いに反省すべきです。しかしバルカン半島のように民族を根絶やしにするといった徹底的なものではありません。現在では実業界、スポーツ界、芸能界で朝鮮系の人々が活躍しています。中にはヘイトする人を見ますが、昨今の欧米で見られるアジア人に対する暴力などありません。
紀元前3000年ころに文字ができて、現代5000年もたっています。子供は生まれてから2000日(5歳くらい)で自分の国の言語の基本的なものを習得しないといけません。それから小学校、中学、高校、大学と文字を読む訓練も受けて、それなりに常識のある社会人になるのです。言葉をしゃべることはずいぶん長く続きましたが、文字を読む、文字を書くという行為はたかが5000年にすぎません。でもこれによって脳の改変が行われたということです。脳の大きさはさほど変わっていませんから、今まで他のことで使っていた脳の部分を文字を読むとか書くとかいったものに代用して発達を遂げたのでしょう。ここに読字障害(ディスレクシア)という問題が出てきます。レオナルドダヴィンチ、エジソン、アインシュタイン、俳優のトム・クルーズなど、本を読めない障害を抱えていました。このような天才たちが本を読めないなんて、びっくりです。どうも彼らは言語中枢のある左脳の部分を使わないで、右脳に新しい言語中枢を作ろうとしているようです。現在では脳をスキャンでき、血液量の点在がほかの人と違うようです。
「ディスレクシアは、脳がそのもの、文字を読むように敗戦されてはいなかったこと示す最もよい、最もわかりやすい証拠である」
直接シカを見てそれを狩猟しようという脳と、シカという文字を見て、それを狩猟しようと想像する脳では、ある面では相当違ったものになっています。前者は一過性でその場限りでありますが、後者は普遍性を帯び、それ故他者に同じような経験をさせてくれるところに大いなる違いがあるようです。
ほとんど統計の微調整の説明に終始しています。タイトル通り、現在の人間は過去の人間より賢いというのが間違いないようです。全世界的に教育が普及し、飢餓も少なくなり、テレビやインターネットの発達で、否が応でも頭をつかなければならない状況になっているのでしょう。
アメリカではIQ70以下は罪に問われないとなっています。善悪の判断がつかない人に罪を着せるのは間違いだと思われます。よく裁判で心神耗弱で無罪であると弁護士が主張していますが、まともな人でも時によってはおかしくなることもあるので、一寸先は闇であるということがよくわかります。私もこの年まで何とか無難に生きてこられて幸せだと思わないといけないでしょう。
中国系アメリカ人や日系アメリカ人は「自然のエリート層」と呼ばれているそうです。人口が少ない割に難しい大学に入っている人が多く、卒業して裕福な生活をしている人が多い。ジェームス・R・フリンによるとIQがそれほど高得点という人ばかりではなく、ただ熱心に勉強することができる人たちだと言っています。つかり家庭環境がそういう状況を作り出しているということです。アメリカに移民した東アジアの人々には、「錦を飾る」という思いがあるのでしょう。大谷翔平などアメリカに渡った野球選手などの報道が多いのも、そのような傾向の表れだと思われます。