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プロレスラーでもグレート東郷という人もいて、アメリカのリングで卑怯な反則ワザを駆使してブーイングを受けていました。「東郷」という名も、日露戦争ではじめてロシアの白人艦隊を全滅させた印象があるので、白人の観客にとっておもしろくない名前になっています。「リメンバー、パールハーバー」で、日本人にだまし討ちをされたという印象もあるので、このグレート東郷が出ると、ジャップという怒号で沸き返っていました。映画でもそうです。日本人の役柄は悪者しかないのです。とりわけ白人女をたらしこむ日本人は白人男に毛嫌いされていました。俳優の名は早川雪州。しかし妙なもので、この悪魔のような雪州を好む白人女性もいたものですから、雪州はアメリカで大スターになり、大金持ちになります。しかし移民してきた日本人にとって雪州のイメージは移民排斥につながり、雪州に対してよく思っていません。日本本国も日本国の悪いイメージを与える雪州に対し国際的な大スターになっても無視を決め込み、顕彰することはなかったのです。
戦後ハリウッドで成功したのは忍者映画のショー・小杉です。ブルースリーがなくなり、カンフーに変わり忍者がハリウッドのトレンドになります。大金を得て、ロスの郊外に忍者御殿を建てます。ところが近所の白人から毎日腐った魚や猫の死骸、ゴミなど投げこまれます。この頃の日本は最盛期で日本製品が洪水のごとくアメリカに流れ込みます。ようするに白人にとって東洋人が成功することが許せないのです。潰れた自動車会社で働いていた白人親子がバーで誤って中国人を日本人と思い殴り殺した事件がありました。裁判の結果は単なる事故として扱われ、執行猶予と三千ドルの罰金だけで釈放されています。最近でもランニングしている黒人女性にビンを投げつけ、アフリカに帰れと叫んだ白人女性がいましたが、先住民族のインディアンからするとあんたこそヨーロッパに帰ったらといいたい気持ちになるでしょう。奴隷として連れて来ておいて、従順でなくなったら、このようなことをいうなんて、これらの人たちの中には程度の低い人もいるのだなということがわかります。
中国はそのうち倒れると20年前から多くの著者たちが言っておりましたが、いまだに健在です。最近ではアメリカのグアム基地を攻撃するプロパガンダビデオまで作って意気盛んです。先に倒れたのは阿部首相であって、習近平は病気でも倒れることはなさそうです。汚職にかこつけて、ほぼ現在敵対するものどもを根こそぎしたようです。日本で言うところの二世議員、中国では建国の将軍たちの息子や娘たち、いわゆる「太子党」といわれるものですが、19代大会では習近平と仲のいい張又侠だけになっています。
中国は共産国であっても、昔の封建王朝と変わりありません。何百年前の言葉でも今の状況にピッタリと当てはまります。
「酒をかわして兵権を除く」
恫喝を含んだ引退勧告です。
「寝床の隣で他人がいびきをかいて寝ているのをどうして許せようか」
煙たいものはさっさと消しておくということです。
「スイカは大きい方を食べろ」
権力のあるものにひっつくということです。自分の信条などもたないことです。
「時務を知るものは俊傑たり」(時流を知るものだけが賢いのだ)
時流に乗って甘いシルを吸うことができるのが頭のいい生き方だということです。
「夷の長技を師とし以って夷を制す」
アメリカや日本から技術を盗んで、それらを製品にし輸出攻勢をかけるということです。
私と年がいっしょです。団塊世代で最も多いい世代です。中高の社会の先生をし、退職してからボランティアで老人ホームなどを回り、手品で慰問しています。広島在住で趣味が手品以外に将棋もあるということですから、私と気があいそうです。インターネットで将棋をしているのですが勝てなくなりました。私はこれで自分のボケ具合を測っているのですが、70歳を過ぎると粘りの無い将棋になっています。ジミー・重岡さんはどうなのでしょうか?趣味の欄には長距離歩きとありますから、まだ体力には自信がありそうです。私は2階に上がるだけでフーフーと言って、心臓が止まりそうです。運動はしないといけないと思いつつも、休みは大方寝転がっているだけです。これではこの先そう長くもないでしょう。コロナにかかれば一発であの世です。
この本では手品の解説はしていませんが、いかに面白く話せるかトークの実例を多く載せています。基本的にはマギー・司郎やセイジー北京の傾向のマジシャンです。
この本で咳やくしゃみを止める方法をはじめて知りました。
「出そうになったら、中指と人差し指の先で鼻の下(唇の上にある溝)押さえると、不思議に止まります」
ためしてみましょう。
私が中学生のとき学校の図書館でよく歴史の写真集を見ていたものです。関東大震災の直後亀戸などで社会主義者たちが殺されている写真が載っていました。大杉栄、伊藤野枝、甥っ子の三人も憲兵隊長の甘粕によって首を絞められ井戸に投げ入れられたともあります。この甘粕は短期間で出所し、満州に渡り、満州映画会社の理事になり、終戦後満州で自殺しています。
大正時代は最近のバブル時代とよく似ているような気がします。大正の初め第一次世界大戦が起こり、日本は好景気に恵まれますが、その後大不況になり、関東大地震がそれに輪をかけて社会を暗くします。インフレで米騒動も起こり、家庭の奥さんまでも抗議の行動を取り出すと、治安維持法を作り締め付けを図ります。それがとうとう第二次世界大戦までも引き起こします。最近のバブルでは戦争は起きませんが、長期間にわたり日本の衰退が起こり、今も続いているようです。大正時代は一瞬ではありますが、アナーキストや脱落者の存在が許された時代だった思われます。明治時代は先進国に伍するために、節制我慢して生きていましたが、第一次世界大戦で大儲けし、それで気が緩みます。好き勝手な生き方が許容された、日本史では珍しい一時期だったのです。
どうも最近「好き勝手」を言えたり、行動したりする本当の奇人はいないように思われます。小賢しく小さくまとまった人が大手を振るっているような感じです。奇人ぶっていてもそれは計算された奇人で大きく枠をはみ出ている人はいない。大きくはみ出ている人は食えないのですから、そのようなことはしません。でも大正の奇人たちは生活が破綻しても、その後何とかなるのではないかという余裕すら感じられるのです。というのは、今よりも人間的な結びつきが強く、手助けする人がいたからです。最近は自己責任で失敗した人にかまける人はいないからです。
年表などを見ると、その時代が終わるとすべてが変わったように思われますが、人間は寿命がある限り時代を超えて生き続けているということがわかっていても、ついついもはや存在しないかのように見過ごされがちです。徳川慶喜もその一人で、大政奉還のときは三十ちょっとすぎで、その後四十年以上もいきています。死んだのは大正2年で76歳です。この期間慶喜は政治とは関係を断ち、狩猟、絵画、写真などの趣味に明け暮れています。静岡に幽閉されたようなものですが、それに対して文句も言わず、淡々とすごしています。逆賊の慶喜が生き延びられたのは幕臣の勝海舟のお陰ですが、その勝海舟が明治政府では爵を授けられ、慶喜の蟄居になにかと口やかましいことを言っていたそうで、慶喜の晩年歴史家が尋ねた折、勝海舟に対して嫌味を言っています。慶喜が生き延びられたことはすべて勝海舟のお陰ではないというようなことをもらしています。江戸時代から徳川家と宮家は通婚があり、親戚でもあったのです。徳川家に嫁いできた宮家の姫たちによって慶喜の助命の運動がなされたそうです。明治20年には慶喜も公爵を授けられ、名誉回復がなされました。慶喜は新し物が好きで、自転車を買って乗り回したのが静岡県で初めて、東京に帰ってきて、大正1年には外国の自動車を買って息子と一緒に乗り回しています。殿様でいるより一般人としてすごしてきた時の方が幸せだったと思われます。