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バックパッカーで特にアジアやアフリカでの旅について書いてきた彼は、この本ではテーマを絞っています。インドで「リキシャ」といわれている、客を乗せて自転車でひっぱる三輪車に出会って、「リキシャ」という言葉から、明治時代にはやった「人力車」から来ているのだろうと考えています。人力車は二輪車で、直接人間が引っ張っていましたが、自転車をつけた三輪車は日本が発明したものかどうか調べていますが、三輪の自転車はあったにはあったが、それが客を運ぶといったことはあまり見受けられなかったということになります。中国や東南アジアで三輪自転車で客を運んでいるのを多く目撃されています。日本の自転車の部品を集めて自転車で牽引する三輪車を作ったのでしょう。それから戦後から、それに今でもタイなどで走っていますが、エンジンつきの三輪車が客を運ぶようになりました。これは日本の戦後賠償で、東南アジアの各国に無償でこれら小型三輪車を贈与したのでしょう。マツダもかわいい三輪車を作っていました。何よりもダイハツ製の「ミュゼット」が有名です。私の親戚も乗っていましたが、マツダでは一トンぐらい載せられる荷台のついた三輪車のトラックも作っていました。その三輪車のハンドルは円形ではなく、バイクのハンドルと同じものです。小型三輪車もはじめの頃はバイクのハンドルの形をしていたように思います。そのうち丸いハンドルに変わりました。
今では日本の自動車会社はコンピューターを駆使して馬鹿高い自動車を作っていますが、市内のスーパーに行けるぐらいの老人用一人乗りの小さな自動車を作ってほしいものです。スピードもあまりでず、衝突しても相手を傷つけることがなく、最悪の場合その車が棺おけ代わりになるよう車であってほしいものです。
これは2017年7月09日にアップしています。私の脳は3年もたつと何もかも忘れてしまうようです。2,3日の前のBBCインターネットニュースに韓国の若者のソウルでの住宅事情が出ていました。李朝時代、科挙のためにソウルに来たあまり豊かでない受験生が住んだという房、ただ寝るだけの場所、これに似たようなものが現在のソウルでもあります。便所も風呂もなく、ビルの半地下にあり、梅雨時期にはカビだらけになるそうです。英語で「banjiha」と書いています。受験生でなくても一般サラリーマンも家賃が高いものですから、房、日本語では部屋、韓国語の発音ではパン、英語ではbanに聞こえるのでしょう、光も差し込んでこないところを借りているということです。
現在分在寅の左翼的政権は北朝鮮と融和的になろうとしていますが、韓国の左翼シンパの心情は、シンシアリーによりますと昔の両班の心情だそうです。王様がいて、彼ら左翼シンパは両班で、あとは下々のものという感覚をもっているようです。だから北朝鮮の王様である金正恩にあこがれるのでしょう。日本で考えられる左翼とはひどく異なるものです。いずれにしても韓国でも富者と貧者の格差が広がり、「ヘル(地獄)社会」といわれるようになっています。
タイに10年以上住んでいる人を永住といっています。戦前からタイと関係があり、戦後いったん日本に帰ってもまたタイにきた人がいます。日本軍兵士のほうは、収容所から抜け出し、タイに潜伏し、そのままタイに居ついた人もいます。戦後タイ人と結婚しタイに来た日本女性もいます。戦後タイに企業の駐在員として来て、タイで人脈を作り、そこで起業する日本人もいます。バックパーカーでタイに来て、だらだらと居座る人はここでは書かれていません。調査の対象ではないようです。
日本の敗戦後タイ人の態度が変わらなく、相変わらず日本人に親切にしてくれたと多くの人が証言しています。タイ人の鷹揚さがわかります。人数が少なかったので、珍しく思われたのかもしれません。それに対して中国や朝鮮での敗戦後の日本人はひどい目に会いましたが、これも多くの日本人がそこに行き、そこに割り込んで、高飛車な態度をとったせいかもしれません。どうも日本人は少数ではおとなしいのですが、多数になると傍若無人になるようです。いまだにこれらの地では、映画など作るとき、日本人に扮した俳優は「馬鹿野郎」と叫んでいます。他の民族をこのように叫んでいたのでは、友好的にはなりません。赤木攻もこう書いています。
『「ガイジン」(欧米人)には時には卑屈な態度を見せるほど丁重なのに対し、「非ガイジン」(アジア人)となると蔑視しがちで、交際を避けようとするのが我々なのである』
どうも我々は他民族との接触に慣れていません。絶海の孤島に住んでいる我々は長年中国や朝鮮と少し関係があっただけで、ほとんどの期間独居状態であったのです。急に国際的になれといわれても、「察する言語」の持ち主の日本人が、「察し」ようとしない中国人や朝鮮人を目の前にして、どう対処できるのでしょうか?思わず「馬鹿野郎」と言って、ビンタを張るしかないようです。このようなことがあっていまだにこの地の人々から憎しみをかっています。
2009年のこの文庫本の前書きで30年前に書いたと記していますから、1979年の出版となります。その前書きで今はずいぶんパリも変わっているだろうと言っています。2020年の今日ではもっとパリは変化しているでしょう。後書きで南伸坊が懐かしい名前を出しています。「モレシャン」、テレビによく出ていて、日本語の上手なフランス女性です。1936年生まれで現在84歳になっていますが、元気なのでしょうか?
ルイ王政の時代、パリの家屋や宮殿のベルサイユでもトイレの設備はなく、街では夜溜まった汚物を窓から道に放り投げていたということです。貴族の女性のスカートは針金を通して幅広くなっていますが、ベルサイユ宮殿の庭でしゃがみ小便をするためではないかと思われます。ベルサイユ宮殿も相当臭かったでしょう。そのためにフランスでは香水が発展したということになっています。1979年代でもフランス人の、ゴミを道端に投げ捨てる習慣は治っていなく、そのために元植民地から人を雇い入れ、清掃をさしています。犬の糞もそこらじゅうに落ちていて、犬の糞収集の専用のバイクの写真まで載っています。
チップの問題ですが、その当時まだ映画館で入場料以外に、席を案内してくれる女性がいてその女性にチップを払わないといけないシステムになっていました。案内といっても自由席ですから、どこに座ってもいいのですが、昔の習慣が続いていたということです。現在ではもうないでしょう。
最近では日本人の旅行客がすりやかっぱらいに会う機会が増えているそうです。フランスは多民族の国ですから、一種の緊張感があります。そこの危機意識のない日本人が行くと、フランスの悪いやつらから見ると、かばんでも何でも持って行ってちょうだいと思えるのでしょう。手加減なく持っていくので、日本もそろそろ舶来信仰を改めたほうがいいかもしれません。
前川健一は高校受験のとき、高校へはいかない、研究者になるのだと言って、笑われたそうです。高校、大学にも行って、中華の見習いコックになったりして、バックパッカーになり、とうとうタイに居つき、現地の嫁さんをもらってしまったという人です。現在あらゆるものが研究の対象になるのですから、日本ではわからない、タイの食べ物、社会生活、人々、などテーマはいくらでもあります。「微笑みの国タイ」と言われていますが、その「微笑み」の裏には、金を儲けたいとか、先進国に対してコンプレックスもあります。タイの子供番組で歌を競い合うものがありますが、そこにはたびたび西洋人とのハーフの子供が人気をさらっています。日本と同じように西洋人は一種のステイタスで、タイ人と違って真っ白い顔は成功への一段階です。最近特に欧米やオーストラリアの退職者がタイに移住しているようです。為替の関係で少ない年金でもタイでは豪華な生活ができるのでしょう。おまけに若いタイの娘を現地妻にして、子供も作っているのでしょう。米国式のハンバーグ店ができるとその国の食生活は大いに変わるといわれていますが、タイでも自分で作っていた魚醤などもみな買っているようです。タイの生活でよく見られる、小さな臼で香辛料を棒でかき混ぜペースト状にしているものもありますが、今ではそれもスーパーマーケットでペースト状になったものが売られています。タイのバンコクの下級庶民は家で料理などしません。みな屋台から惣菜を買って、家では飯だけ炊いて食べています。タイではゴキブリも食べるのだと言われていますが、それはゴキブリでない別の虫です。食べるとフルーティな味がするそうです。ねずみは食べていますが、鶏肉の感じだそうです。われわれもそのうち気象変動でゴキブリもねずみも食べないといけない状態になるかもしれません。人間はすべて慣れるといわれています。