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ゴッホが生きていた時代には、ゴッホの絵は二束三文であったが、現在では何十億円もしている。もしゴッホが生きているときに何十億円の収入があったなら、果たしてゴッホは絵を画きつづけていただろうか?私なら絵を画くような辛気臭いことは止めて、ファッションモデルかレースクインを集め、日々乱痴気騒ぎをしているだろうと思います。ゴッホの絵を見て、こう思うのも、「芸術とは思考のための素材である」ということですから、正しいのかもしれません。また裸婦像の絵画を見るより、生身の女体をみるほうが、私にとって感動や欲望を引き起こすので、女体こそ芸術であるといえそうです。まさしくこれこそが知識無用の芸術鑑賞となります。
「芸術とは思考のための素材である」と言いつつも、本文では、『この絵を見て「意味が分からない」と思ってしまった人はまず「意味」を欲しがるその心を改める必要があります』とも言っています。「どこかから借りてきたお手軽な理解」で満足するようでは、「美術館にいる資格はない」と継ぎ足しています。だから美術館では一端絵を見たら、目を瞑らないといけないと言っています。つまり目を瞑るということは、「現実の絵と鑑賞者との思考が生み出した絵の融合は、目で見るだけでは決して気づかなかった、その絵の本当の姿を導き出してくれるかもしれません」ということになるのです。
芸術はムダだがそのムダも大いなる意味があるのだということを荘子を引き出して説明しています。
恵施「君の話は大袈裟ばかりで、ちっとも役に立たない」
荘子「そう?じゃあ役に立つ話をしてあげようか」
恵施「頼むよ」
荘子「君が立っている地面があるね。その地面以外の地面をそっくり削り取ると」
恵施「削り取ると?」
荘子「それでも君の足下の地面は役に立つのかな」
レクサスとはトヨタの車の名前で、オリーブの木とは、イスラエルとパレスチナの境界線にあるオリーブの木のようなものです。レクサスはグローバルを象徴し、オリーブの木の帰属問題はローカルなものを象徴しています。トーマス・フリードマンはもっとわかりやすい例を出しています。オリーブの木は冷戦時代までの国同士の対立であり、「敵か味方に二分される世界」で、相撲にたとえられます。グローバル化は百メートル競走のようなもので、タイムによって「敵も味方もすべて競争相手に変わる」世界です。その端的な例が金融界です。今日何もかも債権化して売り出されています。歌手のデイヴィッド・ボウイの、まだ出ていないが、今から出るかもしれない新しい曲を債権化して、広くみんなからカネを集めています。まだできていない、企画段階の映画にも債権化が行なわれ、もしこれが出来上がって興行成績が上がると、これに投資した人は投資した金の何倍かのカネをもらうことができるといった具合です。インターネットでも新しい商品を企画し、その商品を開発するために投資を求めているものもあります。
グローバル化がいいのか悪いのかよくわかりません。リーマンショックで経済はギャンブルになったといわれます。行過ぎたので、今、揺り戻しが来ているのかもしれません。トランプもグローバル化に反対のようです。イギリスもEUから離脱しました。日本は相撲が国技なのですから、敵味方がはっきりわかるほうがやりやすいし、おまけに英語が話せない、聞き取れないという連中が多いのですから、ほとんどグローバル化についていけないでしょう。やがて日本は取り残されて、世界の非正規社員になることは間違いなさそうです。
ホームレスや浮浪者の話ほど興味あることはありません。私も春や秋、天候のいい時期、ホームレスになってあちらこちらフラフラしてみたいものです。東京ではゴミを漁らなくても、六本木のキリスト教教会ではおにぎりの配布があり、ヒンズー教の教会も毎週2,3回のカレー雑炊、新宿区役所ではカップうどん、日曜日ごとに新宿連合会では炊き出しがあります。
でもこの本でも出ているように、50代、60代で死ぬホームレスが多いということは、冬の寒さが体にこたえるのでしょう。いくら段ボールで囲っているとはいえ、地から這い上がる冷えは体にはよくありません。この冷えの対策にホームレスは酒を飲むのですが、これがまた寿命を縮めています。
ホームレスの中には鋭い意見を持っている人もいます。サラーリーマンとホームレスとの会話ですが、ホームレスは会社員にこう言っています。
「僕は思うんです。毎日毎日、自分のためにと言いながら会社に忠義を尽くして働いているおとーさん達こそ、家族のためと言いながら家族をかえりみずに働くおとーさん達こそ、そして社会的地位はあるけど本当の心の居場所の無い働き者のおとーさん達こそ本物のホームレスなんかじゃないのかなって」
ホームレスからホームレスと言われた会社員は苦笑するしかなかったでしょう。まるでブッタのような口ぶりで、思わず南無阿弥陀仏と拝みそうです。
「高齢者が食欲をなくすのは、飛行機が徐々に高度を下げていくのと同じだというのだ。徐々に下げるから、静かに着陸できる。ところが、医療はそれを無理やり持ち上げようとする。だから、ドスンと墜落するのだ」
だから点滴など不必要で、かえって害になると言っています。食が無いということは、死に向かって体が準備していることで、それも安らかに死ねることになるのです。無理に食べさすと嘔吐するだけです。それだけ苦しむことになります。医者である著者が言うのですから正しいのでしょう。終末医療で遺漏の手術など、人間の「尊厳」を保てないとことになります。人間、80も90も生きて、もはや食いたくなくなったら、医者を煩わすことなく、諦観を持って餓死することにこしたことはありません。
私は70歳で今不整脈の薬を飲んでいますが、まだ生きたいのでしょう。食べたくないとも思わないので、まだ生きたいのでしょう。しかしいつ何時心臓が止まり、死ぬかもしれません。孤立死も予想され、死後何ヵ月後に発見され、ドロドロか白骨化しているかもわかりません。家族がいないものですから、無理やり食べさしてくれたり、医者に連れて行ったりすることもないでしょう。その点久坂部羊が言うような理想的な死に方をすることができるようです。ソフトランディングがもっともよいのですが、突然エンジンが止まって、地上に激突するハードランディングも一瞬で死ぬのですから、これもまたよしと思うしかありません。
「泥棒も三分の理」ということわざにもあるように、常識的には非難されるべき職業を持つ人々や、また非難されるべき性格の持ち主にも、その存在に一理があるということを、一理というよりは100%世の中には必要な人物であると言っています。経済学者から観ると、人間関係は全て取引であり、この取引に不道徳や道徳などありえないし、単に経済活動をしているだけです。リバタリアニズム(自由原理主義)に立てば、「誰の権利も侵害していない者に対する権利の侵害は正当化できない」ということで、たとえ売春婦であっても、リンゴを売るのと変わりは無いということになります。売春婦は取引相手に「暴力」をふるってはいないし、餓えた男たちの欲望をしずめ、もし売春婦を禁止すると、男たちの悶々は解消できなく、我々自身が「損害」を蒙ってしまうということになります。一事が万事、このような論法で、ポン引き、麻薬密売人、シャブ中、だぶ屋、にせ札つくり、どケチ・・・世の中では必要な人々であり、現実的には「不道徳な人々」と非難されていますが、かえってそのことにより、彼らは現代の「ヒーロー」であると持ち上げています。