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メールとか携帯とか上役とかといった、古代インドではない言葉も出ていて、いかにも超訳という感じがします。
「ただ独りぼっちで歩むのが潔い。まるでインド犀の頭の一本だけシャキンと突き出た角のように」
この「犀の角」だけは超訳できなかったようです。「孤独」と「犀の角」を結びつけたブッタは芭蕉に勝る俳人であるとも言えそうです。
『たとえば、相手が携帯電話ばかりいじっているのを見て寂しくなり、「人がいるときに携帯電話ばかり見ているのは失礼だとおもわないの?」などと怒りそうになったとしたら、怒りが静まり、ほとぼりが冷めるのを待ってから冷静に伝えると良い。「いっしょにいるとき携帯電話ばかりを見られているとさびしくなるから、少しひかえてくれるとうれしいな」と。』
日馬富士もこのブッタの言葉を読んでおれば、横綱を辞めないでよかったのにと思うと残念でしかたありません。
日馬富士のためだけではありません。ブッタは私のためにも言葉を残してくれています。
「次の五つのものを売って商売しないのが、君のためになるだろう。剣や爆弾や戦闘機をなどの武器、人、動物を殺した肉、酒、毒や麻薬などの中毒性のあるもの、・・・」
居酒屋か食べ物屋か、玉虫色のような私の店は、もともとは大衆食堂であったものですが、時代の流れで酒も出すようになったということで、それも余り売り上げはないのですから、ここは大目に見てもらいたいものです。
俳句はポエムではないと言っています。詩人とはこう感じる私はなんて素敵な感性をしているのだろうと思っている人だそうです。反対に俳人とは、サイクロトンのなかで粒子を衝突さし、別の粒子を生じさせ、それを観察する科学者のように、言葉と言葉を衝突さして、新しい意味ができるのではないかと思う人だそうです。季語を含め、575の少ない文字数で言えることは知れています。常識的なものを言っても意味がないのです。そうですねで、終わります。パッと読んで、さっぱり意味が分からないのが優秀な俳句といえそうです。句会で盛り上がるのはこういう俳句です。会員が全員でこの俳句の意味を探ろうとします。活発な議論がなされ、古びた言葉にも新しい要素が加わるのです。千野帽子が志向する俳句は謎解きかもしれません。それか言葉の活性化、地域興しをしているのでしょう。
大胆な推論をしています。ブッタの父はスッドーダナというのですが、隣国からマーヤーという女性を嫁に迎えます。そのマーヤーには妹のマハーパジャーパティが付いて来ます。マーヤーはブッタを生んで一週間後に亡くなっています。マハーパジャーパティがその後ブッタの母親代わりになったということになっています。しかし丘山は、そのときマハーパジャーパティは5歳くらいで、ブッタと姉弟のように育てられて、ブッタはマハーパジャーパティに母親のイメージを抱いたり、思春期になると恋人のイメージを強く抱いたのではないかと考えています。マハーパジャーパティもブッタを息子というよりは恋人という思いをもったかもしれないと考え、その証拠に、自分が生んだ息子・ナンダが出家しても取り乱さなかったが、かつてブッタが王国を捨て出家した時は失神までして、大いに嘆いたということを揚げています。反対にブッタの嫁・ヤショーダラーは自分が生んだ子をブッタによって「ラーフラ」(束縛)と名づけられ、母親になった途端寡婦になったようなもので、ブッタとマハーパジャーパティとの「許されざる関係」を知り、怒りをもっていたということになります。その後息子が大きくなって、ブッタのもとへ遣わせ、遺産をもらって来いと命令しています。いやはやブッタも女性との関係でトラブルがあったことがわかります。ブッタが生まれたとき、予言で「出家してブッタ(覚醒者)になる」とでたので、父親・スッドーダナはそうさせないために、ブッタの周りにハーレムを作り、享楽に日々を過ごさせていました。ところがある朝早く目が覚め、辺りを見ると、ある女はよだれを流し、ある女は歯軋りをし、ある女は陰部をさらけ出して眠りこけています。これでブッタは女に幻滅し、出家を目指すことになります。女性との関係をうまくやっていくということは、ブッタも失敗したくらいですから、至難の技といえるかもしれません。
戦後、日本人は豊かになるために、がんばりました。あれも買い、これも買いというときにはそれなりに幸福感を味わっていたのです。それなりにものがそろった時、困り果てます。ものの豊かさでは幸福感を感じられなくなったのです。あるものはスピリチュアルへ、あるものは自己啓発、あるものは占い、あるものは精神疾患に陥ります。小池龍之介によると、ものの豊かさの幸福感も、精神的な豊かさの幸福感も、脳にインプットされた杜撰なプログラムによってです。このプログラムはあるものが加わると今までの苦が緩和されるというものです。その緩和そのものが幸福感ですが、それは一時的なものに過ぎません。それの輪をかけて苦が沸き起こります。で、次のものを加えようとします。この欲のスパイパルで、大金もちに成った人もいますが、一生使いきれないカネが溜まっても、この欲のスパイパルは残っていて、相変わらず苦から逃れるためカネをかき集めようともがくのです。大概の人は大金持ちには失敗しますが、それでも別の方法で、このスパイパルを続けます。これでは永遠に苦から逃れることはできません。馬の前の人参がこのプログラムの骨子で、食えることもできないのに、食えるという幸福感の幻想をちらつかせ、人間の欲をかきたてるのです。小池龍之介はこのスパイパルを瞑想によって断ち切ることを提唱しています。このプログラムが発動する前に、瞑想というセキュリティソフトを覆いかぶせるのです。ブッタの言う「一切皆苦」を肝に銘じ、幸福などは幻想と思い、信じないことです。
アメリカのアカデミックな世界でも、このような俗受けする本やジャーナリズムが行なドキュメンタリー映画を作ったりすると、大学から追い出されると、スディール・ヴェンカテッシュ本人が言っています。スディール・ヴェンカテッシュはドキュメンタリー映画も作っていますが、コロンビア大学からは追い出されていないようですし、彼はこの大学の終身教授にもなっていると言っています。
社会学の最近の傾向は、事例件数Nを分母にして、金融工学でもあったように、高等数学を駆使して、素人には何か何だかわからないような論文に仕立てることが主流になっています。スディール・ヴェンカテッシュは、アマゾンの奥地や、パプアニューギニアの土人の村に入り、そこで一緒に生活し、それらを記録していくやり方をとっています。もちろんスディール・ヴェンカテッシュもこのNを増やす努力をしていますが、フィールドワークで面接して話しを聞けるのは数百人程度で、何十万人何千万人とはいけません。それでもこの本を読むと、私もニューヨークに長年住んだ気持ちになります。ストリップ小屋で酒を飲んでいると、売春婦が寄ってきます。その女に一杯飲ませて、いくらだいとききます。トイレでくわえるだけなら○○ドルよ、ホテルなら○○ドル、じゃトイレでやってもらうか・・・まるでニューヨーカーになった気分です。もし私が日本で成功した不動産王なら、ニューヨークの画廊に行き、そこにもちゃんとアメリカの一流大学を出た白人の高級売春婦がいて、ストリップ小屋の何千倍も高い値段で、それも目の玉がひっくり返るくらいの料金の高いホテルで好きなことができます。多分私は、貧乏に育ったせいで、親も金持、奨学金なしで一流大学を出て、働く必要もなく、ただただ自分の実力を知りたいために高級売春婦になっているわがままお嬢様のお尻をムチで叩くのではないでしょうか。こんな恵まれた生活に何か不満があるのか、ビシッ、ご両親が嘆くのではないか、ビシッ。ムチたたきのオプションはただにしろ、ビシッ。といってもこのオプションの値段も加算されて、日本で悠々一ヶ月楽に暮らせるだけの料金をむしりとられることになります。