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この本が出たのが2000年で、菜摘ひかるがこの当時25歳ということで、2017年の今では42歳になっているはずです。もはや風俗嬢では採用されないでしょう。若い頃から漫画を描いたり、風俗雑誌に記事を載せたりしていましたが、この方面で今地道にやっているのでしょうか。本の印税だけでは食っていけないでしょう。他人事ながら心配です。菜摘ひかるはセックスが大好きだと言っています。これが好きですから、ホテトル嬢やソープランド嬢やそういった職場を渡り歩いています。路上で素っ裸の写真を撮ったことで警察につかまり、10日間の拘留を受けました。拘置所から出ると、すかさず男を呼んで飢えるようにセックスしています。次の日も別の男とセックスしています。一日たりともセックスなしではすまない女だとわかります。大袈裟に書いているのかもしれませんが、なかにはこのような女性もいるのだと知ると、そのような女と遭遇してみたいという気持ちになります。ソープランドの店長は採用した女性に自らの体を持って仕事のやり方を教えるようです。風俗関係にはいる男たちにはそういった役得があるのではないかという期待があるのでしょう。菜摘ひかるもキャバクラの従業員と店が終わった後、照明を落とした店内で服を着たまま、パンツだけを脱いでセックスしています。風俗では商品である女性に手をつけると木っ端に殴られておっぽり出させるようです。そのような危険があるから二人は燃え上がったと言っています。ストリップも出て、生板ショウをしています。このような本を読んだ後、NHKの清楚そうな女性アナウンサーを見ると、これらの女性がセックスしている時どのような顔つきになるのだろうかと、考えてしまいます。
勢古浩爾は1947年、団塊世代で最も多い人数の年の生まれで、私と同年です。もう仕事はしていないでしょう。この本でも彼は毎日長時間テレビを見ると言っています。多分、テレビを見ながらブツブツ言っているのでしょう。資本論からは一つ引用していますが、全巻を読み通したとは思えません。ロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」からは二箇所引用しています。演歌からは何箇所も引用しています。戦前から資本論などかじっていないとまともな知識人ではないという風潮が戦後我々までも影響をおよぼしています。左翼であるということは進歩的知識人だと見られたのです。そのくせこれらゲバ棒の連中たちは、高倉健の唐獅子牡丹などの演歌を高唱していたのです。資本論の難解な文章よりは、人間の機微に触れた演歌のほうが我々団塊の世代に大きな影響を与えたようです。
勢古浩爾は中川淳一郎の「謝罪」からクレーマーについて引用しています。
「世の中には自分の人生に不満があるからなのか、とかくエラソーに謝罪を要求する輩が多すぎる・・・」
この本を読むと勢古浩爾自身がクレーマーではないかと思われます。人間70にもなると、誰しも「エラソー」にしたいものです。「リスペクト」されたいと思うものです。それも「人生に不満」があればなおさらそのようになります。ノーベル賞受賞者は当たり前のように尊敬を受けていますから、あまりブツブツという人はいないようです。反対に私やら、この本を見る限り、勢古も「リスペクト」がないものだから、何やかやと難癖をつけたがるのでしょう。誰からも嫌われないが、さほど関心ももたれない好好ジイサンよりも、口やかましくて誰もから嫌われる糞ジジーになった方がより人間関係の密度が高いということで、歳の癖に、より顰蹙をかうようなことをしでかすのでしょう。
文化人類学とは身をもって現地に入り、そこでの人間関係や社会のあり方を調べていく学問であるらしい。物理学では実験が、この文化人類学ではフィールドワークがこの学問の基礎になっています。田中雅一は日本のセックスという「現地」にフィールドワークを仕掛けたわけです。風俗嬢やAV女優らが書いたものを読み込むという、文化人類学では一次的なこと、文献・資料を集め読み込むことはしていますが、現地に入り、直接人物に会って話しをしたり、身を持ってセックスを体験したりすることはありません。たとえAV女優が男と女との境界がなくなり、まるで核融合のように男と女が交じり合って、そこから強力な光が出てくるのだという説明を紹介し、あたかもそれがまことであるような同感を開陳していますが、どうもそれは解説者や評論家のような、身に覚えもないくせに、無責任に言い張り、自説を補強しているだけだと思えて仕方ありません。田中雅一の自説と言っても、私にはよくわからないのですが、自分自身のセックスライフを語らないで、そういうものを語ると言うのは、曖昧というか、はっきりしないというか、論旨が明確ではないということになるでしょう。もともとセックスというものは曖昧なものですから、百人おれば百人の意見があると思われるので、文化人類学もああでもないかこうでもないかとさ迷うのがこの学問の宿命かとも思われてきます。
2025年になると我々団塊世代が75歳なり、後期高齢者になります。そのときの65歳以上の高齢者は3800万人ということで、日本中じいさんやばあさんばかりになるということです。後期高齢者の医療費は一人当たり100万円くらいになるそうで、これでは国家予算はパンクしてしまいます。もうカネはないのですから、病気になった老人はすみやかに食を断って自らの命をとめることしかないようです。福岡政行は安楽死もいいのではないかとほのめかしていますが、はっきりといえないので、ぼかしぼかし言っています。はっきり言っているのは、70歳になったら自動車免許の返納です。高齢者が運転する車で、ただでさえも子供が少ないのに、子供が被害者になって、死んだりするのが我慢できないようです。死ぬべきは高齢者であって、今から日本を支えていく子供は何としても生き延びてくれないと困るということです。中国の毛沢東は朝鮮戦争当時、粛清分子たちを前線に向かわせ、多くを死なせ、毛沢東政権を確固足るものにしたという歴史的事実があります。現在朝鮮半島は不穏な状況になっています。この際自衛隊の若い隊員は除隊さして、年金をもらっている高齢者が無給で自衛隊に入り、北朝鮮と戦争になったらこれらが前線で踏みとどまって、侵入を阻止しないといけません。我々団塊世代の男子は300万にもいるそうですから、日露戦争の203高地の戦いのように、死人の山を築こうとも、次から次と代替がきくのですから、北朝鮮の100万の軍隊も消耗し、やがて講和になると、日本は医療費一人当たり100万円かかる老人が一挙にいなくなり、日本の財政も立ち直るのではないかと、試算する人も出てくるかもしれません。安楽死よりももっと名誉的な死に方ができると言われれば、後残り少ない命をかけて、いっちょ機関銃でも持ってやってやろうかという気になる人も多いことでしょう。私も後方で炊事班として、微力ながら貢献したいと思う次第です。
インディオを金銀鉱山で酷使して、絶滅寸前までさせたスペイン人のひとりですから、インディなんか人間ではない、家畜や動物だから奴隷しにしても殺してもいいといった考え方を述べているのかとおもっていましたが、全く反対です。当時のスペイン人のインディオに接し方は、ラス・カサスもこの本で書いていますが、例えばインディオがお土産として鶏を持って来たら、それをインディオに投げつけ、インディオに家から金銀などもっと価値の高いものを持ってこさせるようにしていたということです。インディオはほとんど裸で、「玩具」のような弓矢と槍くらいしかなく、鉄砲やら甲冑で身を固めたスペイン人にしてみれば昆虫を殺すほどしか手間がかからなかったでしょう。これがヨーロッパ人の南北アメリカ大陸のインディオ虐殺の手始めだったのです。とうとう殺しすぎて、アフリカから黒人を移植して労働力のたしにしたというくらいです。
ラス・カサスはインディオの社会は穏やかで争いのない宗教心に富んだ敬虔な人々の集まりだと言っています。たとえいい争いをしても、殴り合いを見たことがないと言っています。現在の我々の価値観からすると、非常に奇異に見えるのですが、ラス・カサスは宗教の生贄のために人間を、それも自分の息子を生贄にするといったインディオの慣習を高い文明の象徴であると言っています。旧約聖書でアブラハムが自分の息子を神の生贄にしたように、ラス・カサスは宗教者であるので、インディオにアブラハムを見たということになるのでしょう。
ラス・カサスによって西欧文明の分裂が始まったといえそうです。西欧が世界を専横し思い通りに振舞うことが許されている思い込みが、ラス・カサスによってスローダウンされたようです。今では西部劇で見られるように、絶対悪はインディアン、それに立ち向かう白人という、能天気な構図は許されなくなり、反対に悪いのは他人の土地を侵害する白人で犠牲者はインディアンということになり、アメリカ建国当時の安閑とした白人たちの精神は現在では強く反省をしいられているようです。