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いろいろ難しい言葉を使っていますが、要は1980年代から子供の質が変わってきて、社会的訓練ができてないガキが多く出てきたということです。高度成長時代を経て、消費社会の時代を迎え、ゆとり教育があったりして、「しつけ」のなっていない子供が増えたということです。諏訪は「自己」と「個人」という用語を使い、赤ちゃんの時の「全能感」を持つ「自己」と、やがていろいろな社会的規範を取り込んで、もはや赤ちゃんの時のような「全能感」を制限しないといけないということを学んだのを「個人」と規定しています。80年以降、個人まで成長しない、自己のまま留まっている子供が多くなったということです。わがままで聞き分けのない子供たちの大量発生です。それは戦後の教育の反省から、個性を伸ばす教育に進路を変更したことによります。個性の大合唱のもとで、基本的な「しつけ」がなおざりにされてしまいました。「オンリーワン」は天才だけに許されるものですが、この時代から大した天分のない者たちまでも「オンリーワン」を歌いだし、学級崩壊、いじめの多発、家庭内暴力、挙句の果て、社会が彼らを認めないものですから、ニートや閉じこもりに成り果ててしまいます。家でおとなしくしている分には家庭内の問題ですが、なかには秋葉原まで出て殺戮をやらかすような「自己」なるものも出てきて、この国の危うさを表出するものも出てきます。
子供は親の鏡であるということも言われます。経済主導の世の中、つまりカネだけが最重要な課題になっている世の中では、欲望を満たすことが一番になっています。カネさえあれば何をしたっていいのだという風潮がこの国を駄目にしているのかもしれません。
この世で中途半端な者ほど始末に終えないものはないとパスカルは言っています。すなわち我々大方が始末に終えないものなのです。度し難いアホと度し難い賢者は我々の尺度を突き抜けていますから、我々には測れません。もう彼らは神の領域にいるのかもしれません。アホでもないが偉くもないわれわれは日々欲望に駆られ、いつの日か死が訪れるということを紛らわすために「気晴らし」(divertissement)にかまけ、何ら信仰に精進することはない生活をしていると説明しています。死後の世界があるのか、神は存在するのかを、賭けの理論で説き、もし神が存在しないとわかれば、神を信じたものも信じなかったものも0だが、神を信じ敬虔な生き方をして死ぬと神の恩寵があると知ると無限大になり、信じなく放蕩をし尽くした生きたで死ぬと、それが0かマイナスかで地獄に落ちるということになれば、やはり生きている間は敬虔に生きて神の恩寵を得るほうが得だということになると数学的に説明しています。しかし中途半端なものは今現在の楽しみのほうが先で、何ら面白みのない敬虔的な生き方は退屈でたまらないでしょう。死んで地獄で身を焼かれようが、酒池肉林の世界にはまるほうが楽しくて仕方ありません。あとは野となれ山となれで、中途半端なものは目先のことしか考えていないのです。パスカルはこのようなことではいけないと言っていますが、最近の傾向として死んだ後のことより、今現在を重要視している生きかたますます隆盛を誇っています。つまり昨日書いた歌舞伎町のホスト「信長」の生き方、即ち神から好かれるような生き方ではなく、他人から好かれるような生き方、そこには絶えず「自己愛」が絡み合っていて、愛し合いされるのが取引のような状態になっているので、いつ何時崩壊するやも知れぬ不安定な生き方しかできないようになっているということです。パスカルはそれに対して、決して裏切らない「神」への愛が心の安定をもたらすのだといっているのです。
もはやキリスト教者もほとんど神の存在など信じていないのですから、パスカルの言う純粋な神への帰依の行き方はできないかもしれません。やはり東洋人としてはブッタや儒教の「中庸」と「寛容」こそが生きる指針としては一番いいのかもしれません。
今からの世界は仕事ができるとか、資格を持っているとかとは関係なく、人から好かれることが一番大事なことであると信長は言っているようです。イケメンや美女のように見目形はある程度必要ですが、それがすべてではありません。これからはみながホストやホステスにならないと食ってはいけない時代が来るようです。弁護士の資格があっても生活保護程度の収入しかない人もいます。要は自分を売る能力がないとどこの世界でも通用しないということです。士業であるとえらそげにしていては、誰も仕事を回してくれないのです。歌舞伎町のNo1ホストの信長は、初めてのお客さんには「自己開示」して、親しみを持たせ、メールやフェイスブックを利用し、絶えず自分を晒して、お客さんとの接触を保たないとNo1を維持できないと言っています。早稲田の教育学部出身の信長は心理学の単位も取っているのでしょう。「エビングハウスの忘却曲線」なるものを持ち出し、人の記憶は翌日になると7割がた忘却しているということで、お客様に自分の印象を残すためには、絶えずメールやフェイスブックでお客様と接触しておかないと忘れ去られてしまい、お客さんも来なくなると説明しています。
シャンパンタワーをすると、その費用が百万円以上要るそうです。東京にはポンと何百万円も出す女性がいるそうですが、どこからそんなお金が出てくるのが不思議でたまりません。世界の8人の裕福者資産が世界の人口の38億人の資産と同じだと出ていましたが、私のような貧乏人には信じられないような豊かな女性もいるということ間違いないようです。
まだ生きているのかと思っていましたが、2011年5月に亡くなっています。児玉清の「負けるには美しく」という自叙伝風なものは去年の5月に読んでいます。表紙の写真は俳優という風には見えないで、大学の教授のように見えます。学習院のドイツ科卒で、大学院に入る予定だったのが、卒業式に母が急死し、仕方なく受けた東宝の俳優試験に通って、それで俳優になった人です。小説好きで、冒険小説、探偵小説、スリラー小説の好きな人で、翻訳を待ちきれなくなって原書で読んだという人です。現実では地味な俳優でスターにはなりきれなかった児玉は小説の中でその主人公に身を託してスター気分を味わっていたのでしょう。誰しも変身願望はあるものですが、小説ほど安易にその願いをかなえてくれるものはないでしょう。ソレがいいのか悪いのかははっきりしませんが、スター気取りで街中を車でぶっ飛ばしたり、いきがって相手を侮辱し殴りあいになるといったような社会の安寧を乱すような行為をしないで、それらを本の中でおとなしく味わっている分社会に対しての危害はなく、褒められるべき行為だと思われます。しかしながら読書家諸子たちは往々にして自分の趣味に没頭し、世間との関係を断ち切る傾向があるようです。児玉清も晩年になればなるほど、日本の政治家や経済人、ギャルの集団の騒がしいこと、新幹線での子供を自由奔放にさせている親、飛行機の中で髭を剃る男など腹を立てることが多くなっています。ソレを書くだけで、それらをとっちめてやったという記録はありません。行動は出来ないで思うだけというのが読者家諸子の欠点です。「負けるには美しく」で天下の黒沢明監督を殴りたかったけど殴らなかったと書いていますが、それにたいして私はもし殴っておれば勝新太郎にもまさる俳優にでもなっていただろうとコメントしましたが、今ではそうすればトランプ大統領にでもなれたであろうと言う事でしょう。
私も韓流ドラマにはまって、NHKのハングル講座を聴きはじめましたが、いまだにハングル文字をはっきりと読み取ることは出来ません。ドラマに出てくる美人や歌い手と楽しく歓談出来たらいいのにという、一見不可能な思いでやり始めたので、はっきり言って真剣味がなかったのでしょう。いまだに韓日辞書も買っていません。韓国旅行で読めもしないのに、韓国の絵画の歴史を書いた本を古書で買いましたが、ただ絵を眺めているだけです。
日本と韓国はまた慰安婦問題でこじれています。なぜこのようなことになったのかというと、英国のインド植民地経営と日本の韓国の植民地経営の比較をした人がいます。イギリスはインドの上層部を取り込み、日本では一挙に韓国の階級制度を無視したことによるということです。しかも朝鮮での階級制度は無視しましたが、暗黙のうちに日本人は一流国民、朝鮮は二流国民と差別は設けていました。つまり英国は間接的にインドを支配し、日本は直接的に朝鮮を支配した違いです。誇り高い朝鮮の両班という貴族階級が被差別人白丁(ペクチョン)と同じにされたのですから、いつまでも根に持つにはあたりまえです。両班以外の朝鮮人は喜んだ人も多かったとあります。が、一千年も朝鮮を牛耳ってきた両班たちは第二次世界大戦で日本が破れ、朝鮮から去ると、牙をむき出します。やはり影響力を持つものは、数は少なくても、かつての支配階層です。反日教育の徹底です。数は多くても、被支配者階級は、どこの国でも愚衆で、支配者階級のいいなりになるのでしょう。慰安婦象をあちらこちらに建てるという政策に対して、ネット右翼のように朝鮮人死ねというようでは愚衆政治の始まりです。あくまでも紳士的に振る舞い、決して激昂してはいけません。詩人茨木のり子のように、ハングルを学んで、韓国を知りたいという日本人が多くいるのだということを知らしめて、敵対する国ではないとアピールすることが必要です。