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岩瀬達哉の「パナソニック人事抗争史」から、この本を知りました。小説ですが、松下電器の裏事情を書いているものです。この小説の主人公は広報課の課長です。入社当時はバスを改造して、自社のキッチン電気用品を積み込み、各地に行って、料理を作り、それで自社製品を広める仕事をしていました。やがて会社も大きくなり、マスコミが集中する東京で、宣伝やマスコミ対策の課ができ、その課長になります。会社が大きくなると、スキャンダル一つでも命取りになります。この主人公はスキャンダルをもみ消すスペシャリストになります。松下幸之助には東京に妾を持ち、子供も産んでいます。その子が松下電器の子会社に入り、アメリカで何十億もの大損をくらいます。幸之助の息子であるということを、おおっぴらに明かさないようマスコミ工作をします。それから幸之助の本妻の娘に伯爵出の婿養子がいますが、これも尼崎に妾をもっていました。これには二人の娘がいます。その娘が変な男と関わりあって、裁判問題が起こり、それがトップ屋に嗅ぎ付けられ、そのトップ屋やら、総会屋にカネを渡し、押さえ込む仕事もしています。
この本を読んでみて、サラリーマンの仕事は何と不毛なものかと思いました。上司の不品行など、会社の製品がいいなら、知れ渡ってもどうでもいいのではないかと思われますが、日本ではそうもいかないのでしょう。日本のGNPに寄与しない仕事を多くのサラリーマンがやっているということを気づかされます。コンビニで働いている東南アジア系の人々のほうがより健全な仕事をしているのではないかと感じます。
一応小説ですから、このようなことが実際あったかどうかははっきりと言えませんが、幸之助や娘婿に妾がいたのは間違いありません。
春画を見た西欧人が日本人の性器の大きさに恐れおののいたと言う話があります。私は案外このことで日本が西洋の植民地にならなかったのではないかと考えています。こんなに大きなものをもっている人間を征服するには大変だと思ったのでしょう。背格好は小さいが、あそこが極端に発達している人間に不安を感じたのでしょう。あんなものでオカマを掘られたり、自分たちの女がやられたりするのを想像すると、身の毛がよだつほどの恐怖を感じたのかもしれません。
いまも漫画やアニメで世界を喜ばしています。春画や浮世絵の伝統がここに生かされています。山下清の緻密な絵も赤塚不二夫のくだけた漫画もここから出てきている。
春画で性器を見るのと、無修正のAVビデオの性器を比べたら、春画での性器が美しいのがよくわかります。忠実に描いてもそこは人間の手になるのですから、デフォルメがなされます。芸術とはデフォルメではないかと思われます。写真やフィルムでのそれは生そのもので、芸術としての加工が為されていません。何か汚さを感じさせます。
「アベノミクス」はかつての若々しい日本を取り戻そうという政策だそうですが、浜によりますと、老人にバイアグラを与えても死期を早めるだけだと言っているようです。かつての日本は「高フロー・低ストック」で、「蓄えはない」が、「勢いをみんなで共有し」「誰もが同じような豊かさを夢見ていた」ということで、「昭和」には「貧困の中の豊かさ」という温もりのある「精神的底流」があったという説明です。ところが今日では「豊かさの中での貧困」ということで、ごく一部のものたちが各種の優遇策に支えられて、特権的にその富を占有する世界になっています。それだから先進国ではありえない、飢餓で死ぬ人もいます。生活保護を申請して、受け付けられなくて、餓死していたということがニュースにもなりました。まさかアフリカでもあるまいし、と思いつつも、今は餓死予備軍が相当いるのではないかと思われます。昭和のようにどっこいどっこいのせ界ならあまり気にもなりませんが、この平成時、とりわけカネがあり贅沢をしているのを見ると、それができないものには心穏やかになれないものです。正規雇用と非正規雇用の関係を見ても、まるで江戸時代の身分制度に帰ったような気がしてきます。「格差」ではなく、「階級」ができてしまって、それに階級の流動性がなくなっているようです。かつてはラーメン屋の息子でも努力すれば東大に入れましたが、いまや親の年収が1000万以上でないとなかなか入れない状況になっているようです。低所得者の子供はやはり低所得の職に就けない仕組みになっているようです。
野球でもそうですが、強打者をカネであさって強化しても優勝できなかった巨人をみてもわかるように、国も力あるもの学力のあるもの・・・など優秀なものだけをそろえ、それで国を牽引していこうとするのは、どこか間違っているところがあるように思えます。ノーベル賞もそうですが、頂点に立つのは一人かもしれませんが、それを支えているのが何万倍もいるということで、俗に裾野が広くないと、何事も完成度の高いものは生まれません。飢餓で死ぬ人がいるようでは、結局は裾野を削っているようなもので、これから先、ノーベル賞がコンスタントに取れるという状況にはならないかもしれません。
この事件が起こったのは1998年でそろそろ20年近くになるのです。死刑判決を受けた林真須美はまだ死刑されていません。法律的にはよくわかりませんが、再審請求がある間は法務大臣は死刑の執行にサインできないのかもしれません。事件当時、真須美被告が庭で家の周りに集まった記者らにホースで水をかけたシーンが思い出されます。何と図太い女だろうかと思っていました。毎日テレビで報道されて、裁判になる前からこの女が犯人だと確証されたような感じです。真須美の亭主も保険金詐欺で捕まり、砒素を飲み、保険会社を騙していたということもあり、このカレー事件も真須美がやったのであろうと思わせるものでした。裁判でも最新式の分析器で真須美の家の砒素と紙コップの砒素が一致したということで、この女に間違いないだろうということになったのですが、最近では真須美の家の不純物の多い砒素と、紙コップの純度の高い砒素との整合性がとれないようになっています。水に溶けたインクが元に戻らないように、不純物の高い砒素を純度の高い砒素にするには困難です。大学の研究室でないと出来ない相談です。当時ではワアワアと騒いでいたので、あまり考えることもなかったのですが、この欲深い夫婦に、関係のない近所の人を殺しても保険金など下りてこないということです。動機がはっきりとしないのです。テレビでは近所とのいさかいがあったなどを報道されていましたが、当時はそれで頷いていました。しかし今になって冷静に考えてみると、そのくらいのことで何人も死ぬかもしれない砒素をカレーに入れるのかという疑問が残ります。単に腹痛を起こして近所の連中を困らせたかったのだという説明もあります。素人ゆえ致死量が分からなかったので、あのような大事件になったのだということです。そのようにも考えられますが、それは状況証拠であり、確証ではありません。当時の家庭では砒素はどこの家庭でもあり、真須美の家にしかなかったというわけではありません。
今もそうですが、テレビなどのマスコミの集中砲火浴びるほど、ダメージの大きなものはありません。真須美のホース水浴びせは全国でバッシングを受けましたが、アメリカなどでは自宅の敷地に越境してくる人間にはライフル銃をぶっ放して殺しても無罪になるということを考えると、ホース水浴びせなど非難に当たることもなく、かえって手ぬるい感じも今ではしてきます。
花やお茶のように、俳諧も師匠として、門弟を募り、門弟の俳句の添削などをして収入を得ていたということです。芭蕉も「芭門」の「宗匠」として江戸で門下生の寄進や援助で生きながらえていたのです。「宗匠」になれるのは、江戸時代の身分制度が歴然としてあるので、「武士、医家、豪農、豪商、高僧など、上流にかぎられた」ということです。芭蕉も武士の出であるので「宗匠」になれたのですが、路通のように捨て子同然で寺に置きおかれた人はいくら俳句がうまくても「宗匠」にはなれないのです。乞食坊主としてあちらこちら徘徊しているうちに芭蕉と出会い、門弟になりましたが、他の門弟の家で茶筒を盗んだ嫌疑を受けたり、いささか行動に問題があったようです。一貫して芭蕉は路通をかばいましたが、門弟の中には、それに後世の俳諧研究家でも路通を俳諧師として認めないものがいました。これに対して正津勉はフランスの強盗殺人犯であるジャン・ジュネを引き合いに出し、作家は作品で評価すべきで、行動で評価すべきでないと主張しています。
「素性、経歴、品行・・・。などなどの諸点に問題があっても、このようなことは当然のことながら、ことその作品の評価について、まったくいかなる関係もありえない。・・・それこそ人の性であるか、差別として現れるのは、どういうかげんか」
今プロの将棋界ではソフト指しで大問題になっています。棋譜も一個の芸術作品と考えれば、思いつかないような一手が人間ではなく、コンピューターが考え出したということなら、もはや今からはコンピューターが芸術作品を作っていくのではないかと思えてきます。格段に劣るわれわれがそれは芸術作品でないと言えるかどうかはなはだ疑問であります。路通問題とソフト指しの問題は一脈通じるところがあるようです。