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霊媒師とマジシャンは昔から敵対しています。科学者はよく騙されますが、マジシャンは騙されません。小説家コナン・ドイルも霊媒師にのめりこんでいました。妖精が写っていた写真を信用していました。SF作家のダグラス・アダムスは皮肉にもこう言っています。
「草木の根本に妖精がいると信じなくても、庭が美しいと感じればそれで十分ではないだろうか」
霊媒師がよく使う手に「コールドリーディング」というものがあります。日本的に言えば、「貴方の家には松があるでしょう」とカマをかけ、お客があるといえば、「そうです、その松が・・・」といわくありげにいい、ないといえば「それはよかった」とか何とか言って、話を続けます。つまりお客の言っていることから霊媒師はお客の情報を掴んでいくのです。そうまでしなくてもお客のほうからいろいろと自分のことについて無意識に言っていることも多いのです。それを霊媒師は目ざとく掴み、お客が納得するような話にもっていくのです。霊とか霊感とはまやかしものと思って間違いありません。それがあると主張するから霊媒師に問題があるのです。霊媒師はもっと心理学を学び、カウンセリングの技術を磨けば、立派な精神分析医になるでしょう。安易に霊など持ち出すから、おかしくなるのです。
ダレン・ブラウンもマジシャンとしてコールドリーディングを使うことがあります。彼は霊媒師との違いをこう言っています。
「私もコールドリーディングを使うことがよくあるが、その文脈は大きく異なる。霊能者はリーディングは本物だといい、心を開いて秘密まで見せなさいと促す。わたしのリーディングは本物ではないといい、疑念の目で距離をたもちながら楽しんでくれと促す。」
日本列島は2000万年前、ユーラシア大陸にくっ付いていたのか、その一部であったのでしょう。そのころから亀裂が入り、1400万年前に、日本海の原型が出来上がったということになっています。そのもともとの原因は、それより2000万年前インド大陸がユーラシア大陸にぶつかり、それによってヒマラヤ山脈ができたりしています。その影響がユーラシア大陸の東側部分にも押し寄せてきて亀裂が出来て、それが拡大して日本海になったのです。マントルの対流によって地殻が絶えず動いているのです。今から2000万年後日本列島は再びユーラシア大陸にくっ付くかもしれません。ハワイ列島も徐々に日本に近づいているようですから、4000万年後にはハワイもユーラシア大陸にくっ付いているかもしれません。人間の時間感覚では今の地球の風景は変わらないように思えますが、万年単位だとビデオの早送りの雲の流れのように変わっているのです。現在の熊本の地震も活断層の活発化といわれていますが、その元にはマントルの対流によって起こされる地殻(プレート)の移動があるのではないかと思われます。
日本海は風呂桶にたとえられています。対馬海峡、津軽海峡、等々、日本海の入り口、出口は深いところでも130メートルしかありません。ところが日本海の最深部は3800メートルあります。シベリアから吹く寒気団の偏西風で、酸素を良く含んで重くなった日本海の水が深部に流れ込んで、この風呂桶に対流をもたらします。この循環は200年から400年にわたって循環するそうです。ところが最近の気候温暖化によって、冷たい偏西風が弱まると、日本海の水の流れが弱まります。海底部まで酸素の行き渡った水が流れこまないようになります。そうなると生物も住めませんから死の海になるということになります。蟹などとれなくなるでしょう。実際、調査で深部の酸素濃度が低くなっているようです。また日本海は日本にたくさんの雪をもたらします。これは缶詰された水ともいわれ、雨だと河に流れてあまり陸地に留まることはありません。雪は山などに積もって徐々に溶けていきます。地下水になったりして長く地上や地下に留まります。これが米作りにも役立ちます。温暖化になりますと降雪量は少なくなり、水不足になる傾向が出てきます。雪かきは少なくなりいいように思えますが、それ以上に水不足は困ったことになるのです。
偶然You tubeで、タイ女性が歌うミュージックビデオをみました。私好みの美人で、タイの山本リンダと名づけました。踊り仕草も、現代的に見えますが、手の仕草がタイ伝統のしなやかな運びをしています。それからというもの、You tubeでタイの音楽を聴き続けています。それで分かったことですが、タイにも日本で言われているところの演歌にあたるものがあるのではないかと思われてきました。タイの山本リンダはポップス系ですが、都はるみのようにコブシをきかした歌い方をする人もいます。私がタイの千昌夫と名づけているミュージックビデオの三部作がおもしろいのです。第一部、農村の貧しい家から、美人の女房が夫が引き止めるにもかかわらず、都会の金持のクルマに乗って去ります。貧乏な男には赤子の娘が残されます。これを見ると、今タイでは高度成長時代を迎えているのだとわかります。演歌系の歌手は男でも女でも、この高度成長時代についていけない負け組みを切々と唄っているのが多いのです。第二部では、この娘が4歳くらいになり、負け組みの男がバイクで、娘と卵や自分の土地で出来た果物を積んで、市に出かけようとしたとき、高級車とぶつかります。その車は逃げた元女房と金持の男が乗っていたのです。それからというもの別れた女房はこの娘を引きとろうとします。収入の多くない男は仕方なく娘を引き渡すことを承諾します。その日、娘を渡そうとしたのですが、娘は父親にしがみついて、母親のもとに行こうとはしないのです。泣けるところです。その部分でタイの千昌夫も声を張り上げて歌います。第三部、金持の男が不正をして警察に捕まります。美人の妻は借金のためかクラブのようなところで働かされます。売春を強制され、拒否したら顔を張られます。元の亭主のものに逃げ帰ります。やがてそこにもヤクザが捜し求めてきます。亭主はヤクザに殴られたり、銃で脅されます。しかし口を割りません。仕方なくヤクザは銃を空にぶっぱなして帰って行きます。やっとそこで夫婦と娘の幸せな家庭が戻ってきます。私はホッとしました。このようなことは日本でもあること、タイも同じようなものだと感じた次第です。で、もっとタイを知るためには小説を読むのもいいのではないかということでこの本を借りたのです。
「僧子虎鶏虫のゲーム」ではまさしく高度成長の話です。土地を騙し取られた男が、騙した男がそこに作ったゴルフ場で働いています。この騙した男はやり手で、他にいろいろな会社を持ち、長男を今度政界に入れたいと思い、ゴルフ場で政治の権力者を招待し、わざと負けて喜ばせます。騙された男は権力者の車を塀にぶつけてバンパーを壊してします。それで首になります。その後この男は権力者に相談しに行きます。要するにじゃんけんのグーチョキパーのように、人間社会も片一方では勝っても、別の一方では負けることもあるのだと、言っているのではないでしょうか。
「滝」では、タイの踊りはその集団があり、世襲になっているのか、親族で継続されているようです。本編の主人公の父が踊りの長(おさ)でありますが、主人公は小説書きです。ここで印象的なのは象が谷に落ち、引き上げられないで死んでいくところです。
「旧友の叫び声」日本でいう全学連が後に社会人になり、かつての夢がはるか遠くに飛んでしまったという状態のことと同じではないかと思われます。
「崩れる光」どうして目が見えなくなったのかよくわかりません。客が持ってきたテレビに爆薬が仕掛けてあって爆発したのかと思いましたが、読み返してもそのようではなし、意味不明です。
「虹の八番目の色」童話のようです。
「毒蛇」これはぐんぐんと先を読まされました。筆力のたつ人が書いたというのがわかります。
C・F・V・ルーモールは日本の良寛といえるでしょう。料理屋の凝った料理とその飾り付けを毛嫌いしています。とくにフランス料理の元の素材がわからなくなるようなやり方と、過剰に香辛料を詰め込むソースに苦言を呈しています。栄養素を壊すほどの手のかかった料理は無駄だといっているのです。序文で、「ふたつのおぞましき習慣、すなわち美味崇拝と、それが落ちるところまで落ちて、いっそうの破滅をもたらす珍味崇拝を生むのです」と言っています。昨今のテレビのグルメ番組の料理は、C・F・V・ルーモールに言わせれば、「おぞましき」ものであり、タイの屋台の焼きそばの方がもっと全うな食べ物に見えてくるということになるでしょう。
C・F・V・ルーモールはパリのパンについてこのようなことを書き残しています。
「フランス人、とくにパリの住民は、白パンを膨らさせるためにハトの糞を使います。これに含まれる空気が釜の中で膨張し、生地の表面を押し上げ、そこに内部に隙間のある、おいしく消化のよい硬い外皮が焼きあがるというのです。ですが刺激の強いハトの糞を食べ続けても、健康に害がないのでしょうか。医者の意見を聞きたいものです」
焼けば病原菌は死滅するだろうけど、あのべっちゃとしたハトの糞がパンの中に入っていると思うと食べたくなくなります。
ドイツと聞けばソーセージかジャガイモ料理くらいしか思いが浮かべません。C・F・V・ルーモールは北ドイツの貴族であり、1785年生まれ、1843年に亡くなっています。メインの仕事は美術史家ということです。同じドイツ人であるショーペンハウアーと女性に関することは同じ思いがあるようです。
「料理女たちは、教養のあらゆる基本がかけています。化粧や流行に身を焦がし、ありとあらゆる愚行に夢中になる彼女たちの中に、理性的な分別など生まれるわけがありません。だれもが、いやいやながら仕事をしているのです。それでいっそう我がままになり、何を言っても、慣れた生き方から出ようとはしないのです。私は何百回となくドイツの台所女たちをよりよい道に導こうと試みましたが、無駄でした」
たぶん食い物にうるさい人は女にもうるさくなるのでしょう。
今はどうかもしれませんが、昔は映画監督や映画会社の重役などは女優と「懇ろ」になることが多かったと聞きます。女優も引き立ててもらうために、自ら積極的にそうしたのかもしれません。スクリーンでは純情可憐な女性俳優も、一皮むけば肉食のメスヒョウだった可能性が大です。小津安二郎は一生独身であったということですが、美女たちに囲まれて、食指が動かなかったのでしょうか。彼は自分の母親が死ぬまで一緒にくらしていたということで、結婚しぬくかったかもしれません。またこのようなことも言っています。
「主婦のいない生活は不自由なこともあるが、女房という生き物に取り付かれたら、もっと不自由になりませんかねェ」
映画「麦秋」で原節子のセリフにこのようなものがあります。
「あたし、40にもなってまだ一人でブラブラしているような男の人って、あまり信用できないの、子供ぐらいある人のほうがかえって信用できると思うのよ」
そうはいっても原節子と小津安二郎の結婚の噂が流れたこともありました。女優と監督に関して、大御所の田中絹代がこのようなことを言っています。
「主演女優を愛さないと全然そこには潤いがでてこないということ。その一番代表が小津先生です。ですから本当に私を愛してくださっているものだと私だって一時はきちがえて、結婚してもいいという気持ちになりました。だけど撮影期間中だけ。終わったらバイバイ」
小津自身、俳優と監督はこのようなものだと言っています。
「女優なんてものはねキミ、ありぁぼくからみりゃ仕事の材料でね。道具とおんなじさ。ただ見ているだけの話で、いちいち恋焦がれた日にぁ仕事にならない」
かつて映画監督と言えば飛ぶ鳥を落とすほどの勢いがありました。現在の映画産業は低予算で、監督などは金策に走り回っているというのが多いのでないでしょうか。小津のように打ち上げには自腹で俳優たちの労をねぎらうということももはや出来ないでしょう。世の中の変化は激しい。磐石だと思われた大地も、いつ何時、のたうちまわって、大亀裂が走りかもしれない時代です。