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「人間の果たす義務なんてのは、要するに唯一つだけ――己の心の満足を求めということ、そして自分でもいい気持ちになるということ、ただそれだけのことだな。」
他人に親切にして自分のカネをなくするのも、それが気持ちがいいのでやるのであって、真に他人のことを思ってやっていることではないということです。これではキリスト教徒の慈善は偽善になってしまいます。病床にあった、信仰深い妻がこれを出版しないように願ったとあります。妻の死後から2年経って、1906年私家版で250部出しました。一般公開したのはマーク・トウェインの死後(1910年)から7年経ってからです。キリスト教国の国であるアメリカで、生きているうちにこのような無神論的な本を出すことは、たとえ大家であっても、非難は免れないでしょう。現在でも堕胎する医者は聖書に反するというので、銃で撃たれて殺されたりしています。大統領選挙もいかにキリスト教者の票を集めるかにかかっています。
このような厭世家になったのは、膨大な借金、妻の病気、長女の突然の死、末妹のてんかんの発作などが一度に襲ってきたからだと思われます。長い人生、順風満帆とはいかないということがよくわかります。
人間には「創造力」というものははなからないのであって、シェイクスピアのいままであったものを再構成したものに過ぎないと言っています。また人間はロボットだとも言っています。
日本が高度成長時期の1971年に出版されています。皆が浮かれているときに、深沢は冷ややかに世間を見ています。当時、深沢七郎と野坂昭如が変わり者の象徴で、何と面白いことをいう人かとおもいました。深沢七郎の小説よりは、彼がインタビューで答えたこととか、このような相談回答がおもしろく、よく読んでいました。実際2016年のこの年になって、今日のニュースの九州の地震を見るにつけ、日本は滅亡するのだという思いはひしひしと感じられます。70年代当時は冗談だと笑っていましたが、この前の東北大震災、それに引き起こられた原発のメルトダウン、今回の九州の地震、経済も落ち込んで、弱り目に祟り目、深沢が理想とする、虫けらのように日本全体も絶滅するかもしれません。日本列島には3000人くらいが理想的で、それ以上は必要ないと深沢は言っていました。
深沢は「精神的」なものはすべて病気だと切り捨てています。
「何故、精神的に女を愛することは精神病の一種かと言いますと、異性愛、同性愛、母性愛、父性愛、兄弟愛、友情、とても神経的なことが多いので、それらはすべて精神病の一種です。人は肉体意外には存在価値はないのです。食うこと、セックス、排泄、それ以外は不必要です。つまり、人間の動きは、飯を食うこと(なるべくうまいもの、うまく食わなければ損です)くそ、ションベンすることザーメンを出すことの3つのうごきだけです。」
女性については、
「女とはクチビル、オッパイ、ヘソのまわり、性器などをしずかに触れば、ウーとか、スウーとか音をたてる、とてもオモシロイ肉体なのです。・・・誰が女のすることや考えていることなどに気をはらうものがありましょうか。サカナにはホネがあるので食べる時はそこを取り去ってうまいところだけを食べます。だから貴方もオンナの胸糞悪い点はそんなふうにしてください。」
ここではオンナは魚になっていますが、ビフテキだとも言っています。うまいものは食わんと損だということです。
もうここまでくると日本はソフトランディングできなくなり、ハードランディングで極度の痛みを味あわないとすまないだろうと、藤巻は言っています。ハイパーインフレを起こし、タクシー初乗りが100万円になれば、今の国の借金の1000兆円も今の金銭感覚からすれば、1000万円程度ですみ、ゴミみたいなものになります。要するにハイパーインフレとは、「債権者から債務者への富の移行であり、この国の債権者とは国民、債務者は1030兆円の借金をかかえる政府なのです。」ということです。やり方は預金封鎖であり、国民の預金を強制的に取り立てて、新円と切り替えていくのです。だからカネを持っている人は今のうちに日本円をドルに変えておけと言っています。大金もちは藤巻に言われなくてももうそのようなことはしているようです。最近パナマ文書が公開されて、セコムの社長や大企業の名が記載されています。支払わなければならない税金を支払わないで、タックスヘイブンの地パナマに資産を置いているのでしょう。何と用意周到な連中でしょうか!我々ほとんど預金のないものはこのような心配はないかもしれませんが、コーヒー一杯が50万円になったら、どのようにしてこれらのカネを儲けねばならないかという問題があります。終戦当時のように、身の回りのものを売るか、闇商売に走るか、厳粛な裁判官のように餓死するかになるようです。
こうまで日本が落ちぶれたのはすべて円高にあると藤巻は言っています。円はドルに対して180円から200円がふさわしいと言っています。いくらいいものを作っても円高だと製品が高くなるので世界はそれらを買いません。安い韓国製や中国製が買われます。それに今のように大きな政府は必要でなく、小さくしろと言っています。年金制度などやめてしまえといい、市場原理に目指した真の資本主義になれと言っています。競争を復活させ、カネを儲けた人には法外な税金をふっかけないで、相続税も廃止しろと言っています。
結論として、日本は終戦当時のように、誰もが平等になり、ゼロからのスタートで、資源などないのですから、体や脳を使って、頑張るしかないようです。
最後の巻は、聖地エルサレムに行ったこと、エジプトに行ってピラミッドを見たことなどを記しています。船から下りて陸路ロバを借りてシリアを横断し、エルサレムに向かいます。マーク・トウェインの一団も今の中国の観光客と同じような人がいて、記念碑の建物や遺物をハンマーで持って削り取り記念に持ち帰っていました。1800年代後半のアメリカ人はやはり田舎者であったということでしょう。事実この地でアメリカ人と言っても、最近戦争した国であるくらいかの知識を持っているほうがましな方で、ほとんどわかっていない人が多かったとマーク・トウェインは記しています。
聖書で知ったこの地方も、一端この地に来てみて、物乞いとボロをまとった人々が多いのに出くわすと、マーク・トウェインに幻滅が起こってきます。
「私が考えていたように、私がパレスチナのすべての物を、あまりに大きすぎる尺度で計っていたのだ。私の考えていたことは荒唐無稽であった。パレスチナという言葉を聞くと、いつも私がそれが、合衆国ほどの大きい国だという、漠然とした印象を心に受けていた」
旧約聖書でイスラエルの王が近隣の王の30ばかりを打ち倒したという記述がありますが、マーク・トウェインが実際ここに来て見て、イギリス、フランス、スペインといった、何千万人を支配している王様とは根本的に違っているのだと強調しています。
『ヨシュアがその有名な会戦に於いて撃ち滅ぼした30の「王たち」からなる連合君主国なるものも、アメリカの普通の大きさの郡をたった4つくらい集めた地域を占めたに過ぎない。カイザリア・ピリピで見たみすぼらしい老族長は、百人ばかりのぼろをまとった従者に一隊を引き付けていたが、あれなんぞは昔の聖書時代に住んでいたら、さしずめ「王様」と呼ばれる代物であろう』
マーク・トウェインは唯一この旅行で感激して、泣いたのは、人類の祖である6000年前のアダムの墓の前です。彼独特の冗談かと思いましたが、「・・・何と言っても親戚である。人間本性の誤りのない本能が、それを確かめ認めて、身震いを起こした。私の、子としての愛情の泉が、そのもっとも深い底まで揺り動かされて、湧き上がる情緒に私は堪えられなくなった。私は柱に凭れかかって、わっと泣き出した。」と書いていますから、本当に感動して泣いたのでしょう。後に宗教には懐疑的になっていますが、この旅行中はまだ30代で、少しは純真的なところもあったと思われます。
1980年 佐藤敬三訳で出版されています。今回は高橋勇夫の訳です。80年代、後に国会議員になった栗本慎一郎がポランニー、ポランニーと言っていましたが、私は「暗黙知」とは無意識のことかと思っていました。栗本慎一郎はテレビにもよく出ていて、まるでケンカをしているような態度をして、生意気そうでした。
今回これを読んでも「暗黙知」ついて、よくわかりません。「人相」と「チェス」と絡めて暗黙知についてこう説明しています。
「これまで分かったところを人相の問題に当てはめて言えば、次のようになるだろう。私たちは、その人らしい顔の外観に注目しようとして、顔の個々の特徴を感知し、その感覚を信じて判断している。私たちは顔の諸部分から顔に向かって注意を払っていくのであり、それ故、諸部分それ自体については明確に述べることができなくなってしまうらしい。・・・暗黙知の機能的構造とはこうしたことをいうのであろう。・・・これを人相などの外観の問題に当てはめると、わたしたちは、自分が注意を向けている外観を介して、その細部の特徴を感知している、ということになる。・・・私たちは、暗黙的認識において、遠位にある条件の様相を見て、その中に中位に近位の条件を感知する。つまり、私たちは、A(近位項)からB(遠位項)に向かって注意を移し、Bの様相の中にAを感知するのだ。これは暗黙認識の現象的構造とでもいうべきものであろう。」
暗黙知とは個々の条件を感知し、統合的に何かを思い浮かべる能力のことなのか?
「ピアニストは、自分の指に注意を集中させたりすると、演奏動作が一時的に麻痺することもある。倍率の高い虫眼鏡で部分を念入りに眺めたりすると、全体の模様や人相を見損ないかねない」
漢字など手書きで書いているとき、じっとその漢字を見つめると、果たしてこれが正しい漢字であろうかと思うときもあります。
「チェスとその勝負の認識に立ち返ってみよう。チェスのプレイは諸原理によって制御される存在であり、その諸原理はチェスのルールの遵守に依存している。しかし勝負をコントロールする諸原理が、チェスのルールに由来するものだなんてことはありえない。」
勝負の結着はチェスのルールでは説明できないが、上位である勝負の結着は下位であるチェスのルールを包括し、「この二つのレベルの間には一つの論理的関係が存在する、といえるだろう。」ということになるとの説明です。
ポランニーがチェスをしたら、たぶん手をじっと見て演奏ができなくなるピアニストと同じように、へぼにも負ける弱いチェスプレイヤーではないかと思われます。