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ブッタや宗教に関する本が3冊続いています。気温の上げ下げで体がついていけなく、少し風邪気味です。若いときは二、三日で治ったものが、今はなかなかすっきりと風邪が抜けません。へたをすると私の涅槃にいたるのではないかと心配しています。このトシになってもまだ生きたいという、輪廻の解脱が出来ないでいる男です。もう死んでもいいかという思いになれないのです。初期の仏伝ではブッタは大工の出したきのこ料理にあたり、それで体が衰弱し80歳にして涅槃にいたったとあります。紀元前5世紀頃、生きていたブッタの行跡は弟子たちの間で暗誦されていましたが、紀元前1世紀当たりに、それらに言い伝えを文字に書き写したのが初期の仏典です。それに対して大乗経典は紀元後徐々に書きとめられて、紀元後5世紀頃に書かれたものもあります。ブッタが死んで1000年もたってできた書物ということになります。ところが肝心のインドで、1203年イスラム軍が入ってきて、仏教が消滅します。インドでは仏教の原典があまり残っておらず、漢訳されたもの、チベット語に訳されたものがあり、それでやっと当時の仏教の繁栄を思い忍ばしてくれるということになっています。ブッタが死んで何百年も経つと、ブッタの神格化が進みます。ブッタの32相なるものがあり、ブッタの舌は顔全体をなめまくることが出来るということもできてきます。これはインドでは貴相であることになっています。このような舌は決してうそは言わないという意味です。食中毒でブッタ入滅時期も大乗経典では豪華絢爛な説教の場と化しています。
島田裕巳は仏教とは開かれた宗教で、後継者と自称するものが「ブッタたち」がこのように考えたのではないかと想像し、それぞれに経典を作り、発展生成した宗教であるといっていました。日本に仏教が伝わった6世紀で、それ以前はアニミズムのような原始宗教があってそれが神道にまとまってきたのかもしれません。卑弥呼はシャーマンであったということも言われています。紀元1世紀や2世紀頃に日本では文字がなかったので神道がどのようなものかよくわからない。八百万の神々というくらいですからあらゆるものに神を見出したのでありましょう。そこには論理も合理性もありません。ただただ自然を怖れるあまり、身をすくませてあらゆるものを拝んでいたということになるでしょう。仏教の伝来でブッタを知ることになり、この方面での蒙を少しは晴らしてくれましたが、依然としてアニミズムの性根を断ち切れず、狐が神になったり、菅原道真を神にしたり、三韓征伐していた神功皇后の腹の中にいた応神天皇を八幡神にしています。
現代では我々日本人には宗教とはあまり関係がないように感じられますが、心情としてはいまだにアニミズムの傾向はあるようです。神社を作るほどではないかもしれませんが、漫画のキャラクターが町興しに一役かって、そのぬいぐるみが街中を闊歩しているのが見られます。これも一種の神起こしであり、やがてこれが神輿などに担ぎ出され始めると、神社が出来て、押しも押されぬ立派な神になるでしょう。
「ブッタ」とは悟りを開いた人、覚醒した人といった意味具合で、釈迦族の王子で、20前にして世の中をはかなんで、放浪した人もいたかもしれないが、紀元前500年頃からバラモン教から派生した一派が出てきて、悟りを開いた人としてブッタと名乗るひとが多く出てきたという説明です。キリスト教のイエスやイスラム教のマホメットほど確実に存在していたとは言い切れないということです。初期原典のスッタニパータは紀元前100年頃であり、ブッタが死んで400年以上も経って出来たものです。そのほかの仏典も紀元後できたもので、果たしてブッタがいったのかどうかはわかりません。その点、キリストは死んでから50年ほどで福音書ができていますし、コーランはマホメットが直接神の言葉を聞いて書いたということですから、実在することは確かかもしれません。日本のように1000年前でも、歴史書が残っていますから、ブッタのような著名な人がいればきっと記録に残されているでしょう。インドのように歴史の記載をしない傾向のある国では、1000年前のことなど夢の、また夢の中でありましょう。
仏教は開いた宗教でありキリスト教やイスラム教は閉じた宗教だと島田は言っています。要は仏教では後継者が好きなように自分の宗教を構築できるということです。「悟った」といっても何も具体的なことは言っていません。各自が悟ったといえば悟ったことになるのでしょう。禅問答でしきりに悟った悟ったといっていますが、それも何を称して悟ったのか余人にはさっぱりわからないのです。わからないことが神秘性を与えて宗教にはいいのかもしれませんが、何か腑に落ちないものがあります。
しかしながらブッタの言葉にハッとすることがあります。
「白髪頭やはげ頭と言っても、単に無駄に年老いた人と言われる人もいます」
私も70近くになり、白髪頭になっていますが、「単に無駄に年老いた」と自分でも思うことしきりの今日です。
満州皇帝溥儀の弟溥傑は日本人の嵯峨浩と結婚しました。満州国との緊密な友好を画策する日本政府の思惑で国際結婚がなされたものです。こうした国の政策ははるか以前、紀元前何百年前から中国王朝で行われたものです。「羈縻(きび)政策」といわれるもので、侵入する匈奴を手なずけるために、その首長に「爵位や公主を与え」、なおかつ自国の女性をも与えて、慰撫し、手なずけるための政策です。もっとも有名なものが王昭君です。王昭君の家は貧乏なので、後宮の絵描きに賄賂が払えなかったもので、不美人に描かれてしまいました。前漢の元帝はこの絵描きの絵をもとに毎晩のおとぎの女性を決めていたということで、美人であるのに不美人に描かれた王昭君は元帝のもとに呼ばれませんでした。匈奴である呼韓邪単于が漢との縁戚関係を持ち、貴国の人臣になりたいと申し出たので、後宮のなかで不美人に描かれた王昭君を差し出したのです。ところがいざ元帝が王昭君をまみえて見た時、とてつもない美人なので蛮人に与えることをためらったと書かれています。しかし国同士の約束ですから、仕方なく王昭君を送り出したという史実になっています。この絵描きの名前は毛延寿というのですが、元帝の怒りを怖れて匈奴の地に逃れたという話もあるし、首を切られたという話もあります。匈奴の習慣で、父親が死ぬと、父の嫁や妾は全て息子が引き継ぐというのがありました。呼韓邪単于が死ぬと、王昭君は、義理の息子である復抹累若鞮単芋于の妻にもなっています。
巻末のある年表を見ますと、紀元前300年から紀元後200年頃が匈奴の最盛期で、後にフン族がゴート族を追い散らしてパンノニア平原に依拠したとありますが、これが匈奴の末裔かどうかははっきりしないようです。国、言語、人種というものから歴史を詮索していますが、全てが流動的なものですから、依然として不明瞭な部分が多く、歴史上の問題が尽きません。
2,3日前、私はガスのコンロで袖口を焼き、「燃え上がる料理人」になるところでした。トシをとると鈍感になり、少々熱くならないと気づかないようです。絶好のタイミングでこの書に出会い、さっそく昨日レシピ通りポテトサラダを作り、キャベツを蒸し焼きしました。弱火で時間がかかりますが、焼け死ぬことはないようです。ただし弱火のためちょっとした風で火が消えることもあるので、ガス中毒かガス爆発に注意しなければなりません。
たまねぎをみじん切りにして強火で焦がしてハンバークの種にしていましたが、弱火で焦がさないでもうまいそうです。これをたくさん作っておけば、ケチャップでソースも出来ますし、オムレツに入れもよろしい。
「限りなくシンプル、とびっきりおいしい!」と表紙に書いている通り、切った材料を蓋つきの鍋で蒸し焼きし、それから味をつけるだけです。中華料理でフライパンに強火を当て料理していますが、これらは食材にやけどを起こしているだけで、細胞がグチャグチャになっていると想像されます。この山本式ではまるで食材が温泉に入ったような状態で、多分気持ちがいいといっているのでしょう。火ぶくれし、やけどしたものを食べるよりは、温泉に浸かって気持ちいいいといっているものを食べた方が体にはいいように思われます。