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ショート・ショートは小説界での俳句とでもいえるでしょう。そこには「わび・さび」ではなくて、「わさび」がきいていなければなりません。ピリッとしたものがないとショート・ショートとはいえないようです。アシモフはそのところのものをこう言っています。
「ひどく短いために最後のオチがうまく効いていなければならない。そのために、読者には、作者の意図を見抜こうとする楽しみがあり、また裏をかかれて、最後の一行で意外な成り行きにショックを受ける楽しみもある」
例えばこうです。妻が美容院に行き、金髪に染めます。帰る途中かつての恋人の車を見つけ、気にしながら、家に帰ります。夫がこの変身振りにビックリし、倦怠期のなおざりのキスから激しいキスに変わるのを期待します。夫が帰ってくると、妻以外の名前を発し、ここへ来るなと言っただろうと叫びます。
一組の男女が車で国道を走っています。途中でヒッチハイクをしている男女を乗せます。ラジオをつけると、一組の男女が強盗殺人を犯して逃げているというニュースが流れます。普通はこの話の流れではヒッチハイクの男女が怪しいと思うでしょう。ところが最後、運転しているカップルが強盗犯だとわかります。
ショート・ショートくらいなら私にだってできるかもしれないと思いましたが、さっぱりアイディアが出てきません。面白い話はそうそうあるものではなく、脳漿を搾らないと出てこないものかもしれません。
ユーモアを理解するためには、それが書かれた時代、言語、国、政治家、有名人、金持、映画俳優、など諸々のものを知っていなければならないようです。チャップリンのようなドタバタならそれなりに見てわかります。脚注なしでは理解できないような話になると、まるで落語の「オチ」を一々解説されながら聴いているようなものです。瞬時に笑えるようなものでなければ、旬の過ぎ去った野菜を食べるようなものです。結局私にはアメリカのこれらの作家の状況は知らないし、アメリカそのものの知識も皆無に等しいものですから、これ面白いだろうといわれても、クラッシクな音楽会場にぽつねんと座っているような状況です。ハードボイルを真似し、それをユーモアに仕立てた作品もありますが、やはり元のダジール・ハメットの小説を読んでいないと、好きでもないクラッシクを聴いて、したり顔をしているスノッブと同じことになります。
昔風の経済学者は「神の手」が存在して、需要と供給の間で一定の均衡の状態になるというドグマにとらわれているとブキャナンは言っています。その系統を引き継ぐ今の経済学者もその均衡を作り出すために最新の数学を使い、物理学で言うところの統一理論なるもののような、簡潔でスッキリした数式を考案しているようです。ところが実際の経済は、欲の突っ張った人間たちが理性の欠片もない状態で金儲けに邁進しているのですから、理路整然とはいかないのです。かつてアインシュタインが想像していた恒常的宇宙論は成り立たないように、この経済界も想定外が日常茶飯事なのです。しかしこの混乱と滅茶苦茶ぶりを長い期間物理学的目で観察すると、おのずと何かが浮き上がってきます。量子学世界で、電子はどこにいるかははっきりとはわからないが確率論的にはたぶんこの靄あたりに存在するといわれているように、金は世界を飛び回っているが、特に金融街という靄の内に激しく渦巻いており、しばしばそれがハリケーンになり、あっという間に札束を撒き散らします。そこでは法則性がないようでもあり、あるようでもありますが。地震の予知が今でもできないように、経済のクラッシュも予測できません。でも1000年に一度起こるか起こらない地震ではその予後の経過はある程度予測できます。天気予報もスーパーコンピューターのおかげで、少しはあたるようになりましたが、経済もいろいろな要素を打ち込んで計算すれば、近似点は出せそうです。でも欲にかいた人間たちがやることで、多分近似点が出た時点で、その裏をかいて儲けてやろうとする魂胆がありありですから、その近似点も瞬時に古臭いものになるでしょう。ですからこの経済という世界では理性の権現である法則性はないということになり、行き当たりばったりの非線形の数学に解析してもらうより仕方ないのかもしれません。その非線形の数学と言っても少しも私にはわかりませんが。
いつまでも長生きしようと思ってはいけません。「足るを知る」ということを知らねばなりません。この著者の言うところ、75過ぎたらいつ死んでもいいとおもわなければならないのです。延命治療とか、ガンの手術などしてみても意味はないそうです。このようなことをすると、かえって寝たきりになり、回りを煩わせるようになります。それに今からは貧乏人は病院から締め出されます。金持だけが手厚い看護を受けられます。国の財政難から金のない人は面倒見切れないというあからさまの政策が今後ドンドン出てくるでしょう。そのほうがいいのかもしれません。点滴のチューブにつながれてただ横たわるだけの生活よりは、路上で行き倒れるか、アパートで餓死するほうが最後まで自分の意思を持って生きていたということになりましょう。点滴チューブでは自分から死のうと思っても死ねないのです。まるで江戸時代の農民のごとく、生かす殺さずの状態にされて、病院や医師を豊かにさせる材料にされるのです。
人間は死ぬ一週間まえからものを食べなくなり水も飲まなくなり、朦朧と気持ちよさそうに死んでいくそうです。私もそろそろ「死の練習」を開始する必要があります。まず一日断食し、餓死というイメージを掴みます。それか息を吸わないことによって、脳内に炭酸ガスが溜まり、快感物質が放出され、長いトンネルを抜けて、天国に入り口に到着できるかもしれません。これらの練習は一種のヨガのようなものでありますから、かえって長生きするかもしれません。私は「葉隠」にならって、「死の練習」は「生きることと見つけたり」ということを思いつきました。
椰子のみが南洋から流れ着いたように、日本にはいろいろなものが流れ着いてきます。最近ではアジアのプラスティックゴミが波にもまれて、ミクロのプラスチック片になって日本近海を汚染し、魚の体内に取り込まれているようです。このようなものは頂けないものですが、大形のプラスチック片である漢字というという文字が入ってきて、それがミクロのプラスチック片のカナに変化したことによって、やっと日本人は自己表現ができたということになります。漢文を真似ていただけなら、中国人からはおりこうさんでねと言われるくらいがオチですが、カナと漢字まじりで文章を書き始めると、漢文世界の枠から自由になり、やっと自分の思いを書けるようになります。特に流行に敏感な女たちはこのアイテムにたけて、その当時では世界にはない、女性の随筆「枕草子」、長編小説「源氏物語」などができています。もちろん女性がかいた日記も何篇かあります。1000年以上も前に女たちが思うところを記したものは世界にはありません。(私がそう思うだけで世界には女性が書き残したものはあるかもしれません。中国にはありそうですが、これといって目立つものはないように思われます)やがて女性に追随して男たちも漢字まじりのカナ文章を書き始めます。この経緯を見れば日本の文化の基底には女の意識が脈々と流れているということがわかります。和歌もそうですが、恋愛とか性愛とか風景とか自然とか日常生活とかが主な題材になっていて、ユーラシア大陸のように戦いが日常になっているのとは非常に違います。もちろん日本にも多くの合戦はありましたが、民族全体が滅ぼされるということはありません。平安貴族そうですが、政敵を徹底的のやっつけるということはあっても、菅原道真のように、怨霊が乗り移るという恐れから、一端貶めたものを再び祭り上げ、祟りがないように願っています。中国の皇帝のように一族郎党皆殺しという冷徹残酷な手法は取れない国民性です。それを何を間違ったのかしれませんが、日中戦争以後、柄にもないことをやり始めて、国全体を崩壊せしめたのです。もう一度原点に戻り、日本人は何が得意で何が得意でないかを知るべきです。おのずと日本の目指すものは、恋愛、性愛、その他日常のこまごましたものの改良になるでしょう。この方面で第一人者を目指せば世界から賞賛されることは間違いありません。すこし次元が低いかもしれませんが、この前焼けたメイドカフェなど、世界では仰天の世界であり、このような店を作る発想はどこの国にもないようです。