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「編集者なんて、いくら書き手がいい人であっても大した作品を書かない人には付き合う気なんかない。人間としていい人であってもさよならって言います。どんなに嫌なやつでもいい作品さえ書いてくれればいいんですよ。山田宏巳っていうのはそういう風にして僕を引き付ける魅力はじゅうぶんですよ」
つまり山田宏巳は「いい人」ではなくて、「嫌なやつ」だけと実力があるということになります。人間、頂点の時おいおいミスをしたがるものです。山田宏巳は二度も頂点に上り詰めましたが、その都度崩壊を招いています。一度は交通事故、二人死傷させています。二度目ははっきりと書いていませんが、大麻でも吸って捕まったのでしょう。20日間も留置場に留め置かれています。「芸は身を助ける」というか、「手に職をつけている」というのは食いはぐれないもので、麻布に店を作り、それから銀座に移転して現在に至っています。60歳を過ぎ、もはや崩壊を起こすほどのパワーはなくなったのかもしれません。それか大人になって人生の充実期を迎えているのかもしれません。
天才の料理人といわれ、物真似に満足できなく、絶えずオリジナリティを追求していたといわれています。ある程度成功するとそれに満足できなくなるタイプなのでしょう。繁盛店の料理長をしていても、一ヶ月も店に来なくなるときがあったそうです。その間何をしていたかというと京都にいって食べ歩きをしていたそうです。
私も一応「オーナーシェフ」ですが、オリジナルティなど考えたこともなく、ただただ親のやったことをやっているだけです。頂点に上がったこともなく、そうかといって破滅的な崩壊になったこともありません。私は見城徹の言うところの「いい人」であり、大した才能はないということになるようです。
有名人の息子や娘には何かと問題があることが多い。下田大気の父親はあのへんてこりんな服装をしている志茂田景樹です。中学生の頃から遊びまくり、高校を卒業して親の七光りでタレントになりましたが、才能がなく、会社を作ったりして倒産し、またバカラ賭博にはまり、ヤクザに金を脅し取られたりしています。その都度親が後始末していたようです。普通の親なら怒りと飛ばすでしょうけど、服装も変わっていれば息子への対処も変わっています。一切干渉しないことに徹しています。どうのこうのと言っても、自分で自覚しないと立ち直りは出来ないと、ある面息子を突き放したところもあります。やっとまともに社会人としての生活が出来たのがタクシーの運転手になったときからです。父親の名声で近寄ってくる人はいい人もいれば、彼を利用しようとするたくらみをもった悪い人もいます。実力もないくせに親の威光で舞い上がっている男ほど、騙しやすいものはありません。彼がそのことに気づいたのは32歳の時であり、タクシーの乗務員になったときです。今までの人間関係を断ち切ることが、カネも時間の流れも変えてくれるということに気づいたのです。要はろくでもない友達とつるんでいると、カネもなくなるし、多額の借金までも抱え込み、無益な時間をすごしてしまうということがわかったのです。彼はタクシーの運転手になって、夜の街に繰り出して酒を飲んだり、キャバクラに行って女と遊んだりすることもなくなり、朝はスポーツジムで体を鍛え、真面目に仕事をしています。2,3年後には貯金も出来たと言っています。
「30歳、40歳過ぎて人生に行き詰まるような人間は、同じ土俵ではまず太刀打ちできない」
一人空間であるタクシーの中でこそ、このような自覚が芽生え、何も努力しなかった20代を反省し、自分のやり方次第では年収800万円も得られるタクシー乗車こそ、人生をやりなおすことができる唯一の職場であると言っています。
小説を一歳読まないで小説家になりたいという人が多くいるそうです。紙とペン、今ではパソコンがあれば、少ない投資で金と名声が手に入ると思っている節があります。そんなに甘いものではありません。プロ野球界と同じで何億儲けるのはごく一部で大多数は食うのがやっとということです。清水義範自身も海外旅行のパックツアーに参加しても、誰一人彼を物書きだと知っている人はいなかったと言っています。小説など読む人は国民のなかのごく一部で、大半はそのようなものには関心がないのです。有名人になれるとしても、狭い世界でのことで、もはや21世紀は、18世紀19世紀のように世界文学全集に出てくるような文豪の世界ではなくなりつつあります。文学も衰退産業の一つだと考えられています。今では優秀な学生は文学など勉強しません。もっと確実の豊かな生活が送れる理工系に行きます。箸にも棒にもかからないものが文学部に行くのではないでしょうか。それかそれすら行けない者が社会で辛酸をなめて、文学にたどり着くというのもあります。いずれにしても小説を書こうとする人は人生の敗残者であり、そこを足場にして世間を見てみようと試みているのでしょう。まるでニーチェの言うところの、弱いものが強い者の社会に地雷を仕掛け、一発逆転の夢・「価値の転倒」を描いているのかもしれません。テロを企てるものはまだ元気のいいほうで、その元気もなくなり、体制に順応し、出版社が命じる企画の元にせっせと原稿用紙に文字を埋める「器用に成り下がった作家」もいます。自分で言いたいこともなく、社会の需要に合わせ、職人の技を駆使し、世渡り上手な作家も見受けられます。
この本が出来たのは2007年で清水義範が60歳の時です。我々団塊世代が定年を迎え、やがてこれらが作家を目指すだろうと予言しています。それが自分史の盛り上がりや、自主出版の隆盛につながっています。我々の時代は戦争のない時代であり、大いなる悲劇はあまりない世代で、大半が会社に入った、結婚した、子供が生まれた、定年を迎えたで終わるような平凡な人生を過ごしてきています。銃を盗んで人を何人も殺したという永山のような経験をしたのは少数です。もちろん作家になるために人を殺す必要もないのですが、何か物足らなさを感じさせる世代かもしれません。
三人の数学者の言っていることはわかりませんが、天才にも変な癖や失敗があるということを知ると親しみがもてます。ノイマンは女のスカートの中を覗くのが好きで、秘書たちは自分の机の前をダンボールで覆っていたそうです。いまならセクハラで懲戒免職になっているでしょう。ゲーデルはウィーンのキャバレーの踊り子と結婚して、学者の世界には合わない女性でしたが、彼女なしでは何も日常生活できない男でした。チューリングはよく知られているようにホモでした。最後は国家の機密をよく知っているので、諜報機関に殺されたのか、自殺なのか、誤って青酸カリを吸った事故であったのかはわかりません。ノイマンは原爆製作に携わりました。第二次世界大戦が終わり、ソ連が強くなると、ソ連に対し先制核攻撃すべきだと主張していました。ノイマンのことを聞き入れたとすれば、現在プーチンは存在していないでしょう。三人の数学者は子供時代から天才です。10代の終わり頃には博士にでもなれるような論文を書いています。中年や晩年から急に天才になることはないのです。なぜ先進国だけからこのような天才がうまれるのでしょうか?どの民族でも天才の生まれる比率は同じように思われます。しかし貧しい国では天才に生まれても生活のために日々稼ぐことに追われてそのような研究の時間を持てないのでしょう。その点ヨーロッパやアメリカは天才を養成する制度が整っているのでしょう。もちろん日本にも多くの天才がいることでしょう。しかし欧米ほど目立たないのはどういうことなのか?日本人の引っ込み思案かもしれません。出た杭は打たれるといった積年の生活規範によって天才も凡人のフリをしているのだと思われます。ぼちぼち日本の天才たちもこのような規範を打ち破って、堂々と自説を述べ、自分は天才であると高言して欲しいものです。中国や韓国が何を言おうとも、多くの天才を輩出する日本を見ると、世界各国は韓国が推し進める慰安婦の像を設置しようとはしなくなるでしょう。
茶道、華道、剣道、弓道、武士道、芸道、思いついただけでも「道」のつく言葉が見つかります。たかがお茶を飲むだけで、些細な取り決めを踏襲しないといけないというのは何かおかしいのではないのかと思う私はやはり教養が足らないのでしょう。秀吉が利休の庭に朝顔が見事に咲いているというので見たいというと、利休は咲いていた朝顔をすべて刈り取って、茶屋に一輪だけ朝顔を活けて秀吉を迎えたとあります。これが「わび、さび」というものであるといって、秀吉も感心したということになっています。これも私には解せないのです。「わび、さび」も自然らしさを出すということで、意識的な人工的なものを排除するというなら、咲いたものをわざわざ刈り取る必要もなく、咲いたままにしとけばいいのにと思ってしまいます。かえって一輪だけを残すというのはわざとらしいというか、奇をてらっているというか、相手を煙に巻いて面白がっているという風に感じられます。百姓上がりの秀吉もバカにされないために一応感心したフリをしましたが、内心朝顔がいっぱい咲いた派手さを好むというのは育ちの悪い証拠であるということを突きつけられたと思ったことでしょう。成り上がりものがここで怒っては成りあがりを証明することになりますから、ここではグッと自分の気持ちを抑えたのでしょう。聚楽第を建てたくらいの派手好みの秀吉を礼儀正しくちくちくと利休はいじめていたということになります。これが溜まり溜まってとうとう秀吉は利休に切腹を命じたと私は考えます。
どうも日本の「道」のつくものは、いまでいう「ガラパゴス」化ではないかと思われて仕方ありません。世界から切り離されて、他からは理解できないような世界を作り上げたということではないかと思われます。それか盆栽化ともいえるでしょう。大きくなる木を捻じ曲げてコンパクトにまとめ、ミニチュアの世界を、または奇形の世界を作っているということです。この中で満足しているのなら別に害もないかもしれませんが、これを世界に推し進めようとすると、とんでもない摩擦が起こってくることになります。相撲界もいまは少しは落ち着いていますが、日本のやり方を押し付けると、やがて外国人力士の反乱が起こるでしょう。あくまでも「利休」の方針を貫くなら外人など入れないで、日本人だけでやるべきです。双葉山、大鵬は最高だ、だから日本人も最高だと言っておられて、自分のアイデンティティを脅かされることもないでしょう。