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三谷雅純は2002年48歳の時脳梗塞になり、右半身麻痺と言語障害になりました。もともと霊長類学者でありますから、徐々に言語が回復していくなか、人間と霊長類との違いについて、言葉がもっともキーポイントになると言っています。チンパンジーにオレンジが食べたいという手話は教えられ、チンパンジーはそれを再現できます。しかしオレンジが黄色であると自発的にチンパンジーは答えられないでしょう。具象性はある程度チンパンジーにもわかるようですが、象徴性になるとさっぱりということになります。かつて同時に生きていたネアンデルタール人も人を埋葬した時花を手向けたとありましたが、それはたまたま花粉が地層に混じったということで、今ではネアンデルタール人が葬式をしたとは言い切れません。しかし人では「文化のビッグバン」が起こったのです。つまり言葉の発生によって、人間には「宗教」と「芸術」と「ユーモア」の理解が起こってきたというのです。聖書の「はじめに言葉ありき」というのはいいところをついています。言葉なくしてはあらゆるものは生まれなかったでしょう。いいことも悪いこともすべてことばから由来します。喧嘩も言葉のちょっとした言葉の行き違いから起こります。国家間の戦争も言葉のやり取り次第で避けられない状態になります。70年戦勝記念で、中国は安倍総理を招聘していますが、行かない方がいいでしょう。第二次世界大戦で日本は負けたけど、それによってアジアから欧米の植民地政策を駆除したといういい面もあるなどと言うようなものでもあれば、中国も韓国も日本の施政者はまだ歴史認識がなっとらんと非難されるでしょう。我々は原子爆弾投下や無差別爆撃にたいしてアメリカに歴史的認識がなっとらんとあらか様に言ってはいません。ソ連に対しても不可侵条約を無視して、北方四島を占領したことに対して言葉荒げることなく腰を低くして返還をお願いしているのに依然として無視続けられています。ここはじっと臥薪嘗胆、歯を食いしばって耐えることしかないでしょう。へたに言葉を荒げるとまた戦争が起こるかもしれません。
自称ジャーナリストと呼称される人が本当のジャーナリストで、NHKや大手メディアに属する記者たちは「会社員」ということになります。つまり上杉に言わせれば、実際に現場に行ってその状況を告げる人がジャーナリストであって、記者クラブなどでお上の垂れ流しをそっくり記事にするのはその会社の社員ということになります。いま人気の池上彰もジャーナリストではありません。彼は実際に取材していないからです。よく言えば解説員といえるでしょう。テレビの出てくるコメンテーターもアメリカでは専門の分野でコメントするだけで、日本のように政治のコメントをしたり同時にラーメンのコメントをしたりはしません。小賢しい芸人とでも言えるでしょう。また日本のキャスターなどはキャスターとは似て非であるとも言っています。ジャーナリズムで何年も鍛えた人でないと、アメリカではキャスターとして勤まりません。日本はアナウンサーであったり、人気ある芸人がキャスターになっていますが、上から操られる人形であるのでしょう。自分の意見やポリシーを持っていないか、持っていても表に表せない状態であるのでしょう。表したら即刻干されてしまうでしょう。このようなものでは広告主に反旗をひるがえすことはできそうにもありません。新聞もテレビも広告主や政府の恩恵をこうむっています。電力業界の年間の広告費は総額1兆円を超えるほどです。記者と名乗る大手メディアの「会社員」などこれらに対して悪口などいえそうにもありません。NHKは公平無私をうたっていますが、実際は政府の認可企業で、政府の意向を大いに汲み取って放送しているのです。日本人はこれら大手メディアの流すニュースを大いに信頼を寄せていますが、はっきりいってあまり信用をしないほうがいいかもしれません。いまだに大本営発表が続いているのです。なぜなでしこジャパンが国民栄誉賞になったかは、その裏には政府が隠したかったものがあるからです。これは「スピンコントロール」といわれるもので、いいニュースを流し、同時に起こっている悪いニュースをそれによって「希釈」するという方法です。2011年の8月には福島の崩壊した原子力建屋の放射能のレベルが最高に高まっていたときに相当します。
一時は大手メディアの対抗馬になると思われていたインターネットもいまや「バカと暇人」の集まりになっていると言っています。やはり国民のレベルが政治やインターネットに反映するということで、それはそれで大いに如何とも仕方ないと言えましょう。
今の日本の状態を壊れかけた「ホットプレート」にたとえています。
「熱がまわってくるのは、大企業や富裕層たちであり、いつまで経っても冷たいままなのが、豊かさの中の貧困にあえぐ中小・零細企業や一般庶民たちだ」
アベノミクスはこのホットプレートを直さないまま、つまり「富の再配分」を大企業や富裕層に偏ったままで「バブル」を起こそうとしているのです。だから一般庶民や貧困層にますます「厳しい政策」を推し進めています。
日本もアメリカも株の値が上がっていますが、これは各国が通貨量を増やし、そのあまったカネが株というギャンブルにつぎ込まれているだけだということになります。このようなものに一般庶民がなけなしのカネをつぎ込んでも、これら富裕層の集まりのファンドの駆け引きに巻き取られるだけです。一般庶民の1000万円は命に関わりますが、富裕層には鼻くそのひとかけらにもなりません。これらのファンドは高値を吊り上げて、そこで売り逃げようとしているのです。企業の将来性があるかどうかなど考慮してはいません。バクチですから、カモを引き込んでカモが高値で買ったら、そこで売り払い、暴落を引き起こし、底値になったらまた買って、ということを繰り返すだけです。
バクチといえば日本にもカジノを作ろうというものもあります。日本を観光立国にし、観光客のカネを一挙にトロール船のように巻き取ろうという思惑です。このようなたいそらしい箱物を作らなくても、日本には古来から賭場というものがあります。サイコロバクチです。今外人観光客は日本の旅館に憧れて来ているようですから、そのような旅館で政府公認のヤクザが仕切るサイコロバクチでもすれば、ワンダフル!高倉健の映画そっくりねと大いに喜ばれるでしょう。食えないヤクザがゴロゴロいますが、とりわけ背中に豪華な刺青を彫っているヤクザを公務員として雇い、そのような外国人が来る旅館に派遣し、賭場を開帳し、背中の紋々をパッと見せれば、「おもてなし日本」の面目躍如となります。時たま取り締まりの警察官を派遣し、観光客をビックリさせるのも一興だとも思われます。本当に日本に来てハラハラどきどきしたと思ってくれて、帰ってからも経験を他人に話しまた話された人たちも日本に来たいと思うことでしょう。
2015年もはや3月になりましたが、果たしこの先日本はどうやらなるやら?
1947年生まれ、私と同じトシです。団塊の世代で一番多い世代です。10年も経てば我々の多くが介護の対象になっているでしょう。日本の危機です。国家はこの費用を払えないでしょう。たぶん姨捨山、おじ捨て山になっているでしょう。カネのないものは非情にもほっておかれて野垂れ死にするでしょう。生活保護を申請しても受け付けてもらえません。早く死んだほうがいいよとアドヴァイスされるでしょう。そうならないためには今から自制して、病気にならないように、ボケないように注意深く生きないといけません。将来の日本はアフリカの野獣の王国になっています。骨折でもすれば、よってたかって食われてしまいます。たとえ百獣の王のライオンであっても、牙が折れるとハイエナなどの集団にとって食われるでしょう。だから今元気なうちに言いたいことを言うことが必要です。池田清彦は大麻解禁を主張しています。大麻は麻薬のように体に悪くないと言い、この国は他人の楽しみを認めない偏頗な国だと諌めています。中国や韓国の攻撃から身を守るためにはアメリカの51番目の州になるべきだと主張しています。また温暖化の指摘は原子力発電の推進のためだと言っています。炭酸ガスを出さない原子力発電こそがこれ以上地球を熱くしない方法だということです。しかし本当に温暖化しているかどうかは確かでないと池田清彦は言っています。ガンの対処も全面的に「ガンと戦うな」という先生に同調しています。おまけに健康診断を定期的にしている人と、何もしていない人と比べると、何もしていない人が長生きだったというデーターを持ち出して、医学とは寿命を短くするものだと言っています。60歳になって定年になり何か趣味を持ちたいと思ったら、あとせいぜい15年くらいしか元気でいられないのですから、他人がしないようなものをやれば15年間も経てば、それについて一冊の本も書けるということになるといっています。私のように将棋などを趣味にしていたら、一向に強くならないのですから、注目されることはありません。
山本貴光はコンピューターでプログラミング言語を駆使して、ゲームを作っているそうです。プログラミング言語も人によって文体が異なっているのでしょうか?コンピューターに動作をさせる命令書だそうですが、一目見ただけでは暗号のようなものでしか見えません。読むという行為も今では本や新聞で読む以外、パソコン画面やスマートホンでも読んでいます。技術者らしく、夏目漱石の「吾輩は猫である」の全文の文字を9ポイントして並べてみると1・131キロメートルになると計算しています。
「私たちは猫を読み始めて読み終わるとき、物理的に言ってざっとこれだけの距離を移動したことになる。読書とは一種精神のうえで行う旅のようなものだが、実際物理的にもこれだけ移動しているのである」
私は寝転がって本を読んでいますが、実際は大旅行していることになります。カネのない私にとって読書とはありがたいものであります。本そのものも図書館から借り、費用はかかりません。タダであっちへ行ったりこっちへ連れてもらっているのです。
「批評するとは自己を語ることである、他人の作品をダシに使って自己を語ることである」(小林秀雄)
私には「批評」するだけの能力はありませんが、この本を「ダシ」に使って自分を語ることは出来そうです。大旅行といっても所詮は脳みその中ですから、私の脳みそが語ることが出来る範囲しか旅行していないことになります。せいぜい倉敷か岡山くらいでしょう。昨今の円安で海外など行けそうにもありません。