[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
高校生時代数学は苦手でした。その分だけ数学ができるという人を見ると尊敬します。私の学力は二次方程式までで、16世紀のタルターリアとカルダーノの三次方程式になるとあやしくなります。ニュートンとライプニッツの微分積分になると脳に靄がかかります。それ以降の数学の話はチンプンカンプンですが、なぜかしらこういった本を読んでしまいます。よくわからないので私の言葉で考えてみるに、いま問題になっているのは、数学は人間が作ったものであるのか、神が作ったものであるのか、ということになるのでしょう。将棋には規則があり、整然と差し手をすすめることができますが、数学の規則は将棋の規則のようにしっかりとしたものであろうかという疑念が沸き起こっています。数学の定理や公理は人間が恣意的に作ったものであり、もし宇宙人がいれば人間と違った数学を持っているのではないか考えている人もいます。今のところロケットを飛ばしたり、橋げたの強度とか、天気予報も数学でうまく処理できるので、有効な学問です。そうかといってこれが広大な宇宙を満遍なく網羅するようなものであるかどうかははっきりとは断言できない状態なのでしょう。フニャフニャな地盤の上に建てられた砂上の楼閣かもしれないという思いもあるのでしょう。私などはロケットがうまく飛んでいけるので、それをサポートする数学は十分であると思ってしまいますが、論理的な人はそれでは十分でないらしい。このように安易に妥協しないことで、新しい道が開けてくることもあります。その点日本人は相手を思いやって、はっきり反対のことを言えないので、その方面では損をしているかもしれません。ベルヌーイ親子、兄弟、孫までもこの数学でオリジナリティをめぐって喧嘩しています。数学者は変わり者が多いというのは確かです。
「路地」を最初に被差別部落の意味に使ったのは作家中山健次だろうと思います。それまでは「部落」と言い、普通の部落という意味もありますが、話の流れによってはそれが被差別部落の意味になったりしていました。部落の起源には、牛などを屠殺する仕事についている職業説、大和朝廷が成立する過程で、土蜘蛛とか呼ばれた反抗する土着民であるとか、士農工商の身分制度で、農工商の以外にそれらの下に非人などを置いて、農工商の不満を和らげるという政策で出来たものだと言う説もあります。いずれにしてもよくわからないということになるでしょう。
韓国時代劇ドラマでは「ペクチョン」(白丁)と呼ばれる被差別部落民がよく出ています。ついこの前までNHKでやっていた「トンイ」も、父親が遺体の鑑定人を職業にしていたので賤民という設定です。日本でも監獄の官吏や目明しや首切り役人も賤民がやっていたということです。韓国でも穢れる仕事は賤民の領域だったということになります。韓国現代劇ドラマでも、「冬のソナタ」出たチェ・ジューが肉屋の娘で出ているドラマがありました。交際相手の男の親が結婚に反対しています。親同士が友達であるにもかかわらず、です。韓国社会でもやはり屠殺に関係するのはペクチョンであり、その流れで肉屋も同類と見られているのでしょう。
上原も肉屋の息子で、自ら被差別部落の出身だと言っています。彼は韓国に行き、肉市場や屠殺場に行き、ペクチョンを探し出そうとしています。韓国でもこの問題は微妙であり、表面上差別はないと言いつつも、ドラマでも見るように、いくら美人であっても肉屋の娘を忌避することがありますから、全然差別がないということはないようです。第二次世界大戦やそのあとの朝鮮戦争で、朝鮮そのものが混乱し、被差別部落の住民も流浪し、完全な形で残っている部落はないようです。
上原は最近の「橋下」問題で、自ら被差別部落の出身だと名乗って、これで免罪を得た気になって、何を書いてもいいのだという驕り高ぶりがあると批判されています。もう無くなりましたが、「噂の真相」という雑誌に「部落出身芸能人」を書いて物議をかもしたこともありました。
「一度目は映画を見たときに。二度目は映画を評したときに。あ、三度目があった。三度目は他人の映画評を読んだ時に。この人はこんなことを言っているけど、ピント外れね、あら、ここわたし見逃していたわ、うう、つっこみどころ満載」
私はパソコンで映画を見ていますが、始まる前はワクワクします。ライオンが唸ったり、サーチライトがぐるぐる回ったり、日本映画では岩に波がぶつかるシーンで期待がたかまります。が、最近歳をとったせいか、めったに感動することはありません。大人気のディズニー「アナと雪の女王」を見ても、何だ、これしきのもので大騒ぎするのかと、思ってしまいました。ストーリーは無限にあるが、結局男と女の問題に尽きているのです。人間長くやっていると、人間が「ウザク」感じられます。いっそのこと微生物が主人公の映画を見たいものです。雌雄の区別がつかない微生物かウィルスが活劇をする映画を見たいものです。世界は広いですからこのような映画もできているかもしれません。エボラ出血熱の病原菌の、成長して大人になっていく、「ビルドゥングスロマン」などは、映画「ランボー」以上に破壊的で、最近のエーズ菌のように人間に飼いならされた日和見的な菌をきれいに一掃してくれる爽快な映画ができるかもしれません。
上野千鶴子はまたボケ老人の監督がボケ老人映画を作ってはどうかと提案しています。これもシュールな映画になるでしょう。エンドは監督が死んだときになるかもしれません。高齢者時代映画は老後の楽しみの一つには間違いありません。
前回にダーウィンの「変われるものだけが生き残れる」というのがありました。柏井が京都料理はこうあるべきだと言っても、食材も人間も変わっていってのですから、彼が考える京都料理なるものも自ずと変わらざるを得なくなっているはずです。柏井の本業は歯科医で、この本の中でも最近の若者の歯はやわらかいものしか食べられない貧弱な歯になっていると言っているように、食もそれらに合わせたものしか出てこないでしょう。私も店の中から外を歩いている若者を見るにつけ、これらは果たして日本人なのかと訝ることが多々あります。慣れ親しんだ胴長短足の御仁は中年以上にしか見られません。女性の足もスラッとして長く、たぶんこれらの若者の腸は短くなっているのだろうと想像されます。かつての典型的な胴長は米や食物繊維を消化するために長くなった腸を収納するためにあったものです。かつて第二次世界大戦で米軍が日本軍陣地の肥溜めの大糞を見て、予想を超える多くの日本兵が山に隠れているのではないかと思ったという話があります。米兵と比較して、日本兵は米や野菜を食べているので消化しきれない植物性繊維が排出されて、米兵もびっくりするほどのものになるのです。ということは米兵は消化のしやすい肉やバターを食べているのですから、出るものは日本人と比較すると、大男の癖にはるかに小さかったのでしょう。戦後70年も経てば、この短い時間でも食べ物が変わると、人間の体型まで変わってしまうということがわかります。
北大路魯山人から続く料理の記述は「通」としての優位性を表していて、料理に対しての薀蓄を垂れています。柏井も系譜を引き継ぐものだという意識でこれを書いているのでしょう。これらは料理屋としての料理であって、日々食べる家庭での料理や定食屋での料理ではなさそうです。はやりとしての料理は廃れることも早いのです。これらに一言設けても次の日にはその店はなくなっていることも多い。いくら言ってもこのようなことでは詮無きことかも知れません。
自然は力が強いものだけが生き残るということはありません。そうだとしたらアフリカ大陸でシマウマはいなくなっているはずです。私の店もそうです。小さな店ですが何とか続いています。弱肉強食の世界であっても、弱いものでも生き残れる方法はあるのです。その一つが「ずらす」ということがあります。らくだのように砂漠でも生きられる能力を身につけることです。砂漠では肉食獣の天敵はいないのですから、水をあまり飲まなくても生きる術を身につけると砂漠は天国になります。私も歳をとって欲しいものがありませんからカネを使いません。それでなんとかもっています。また生物界で「ナンバー1」になるのは「誰にも負けない」ということではありません。「誰にもできない」ということで「ナンバー1」になれるのです。企業間でのシェアの争いはだいたい大手がそのシェアを独占します。同等程度の製品なら大手が勝っていくのです。だから弱小企業は大手と同じ物を作っていたのでは勝負になりません。アイディアでもって新しいシェアを開発し、そこに一番乗りして強者になるのか、それか強者の図体の大きさで競うのではなく、自らの身体の小ささで勝負するかです。昆虫のように図体を小さくし、「隙間」を見つけてその空間の中で繁殖するという方法もあります。
ライオンはボスのライオンを排除すると新しいボスは前のボスのライオンの子を食い殺します。かえってこうした徹底さが絶滅の危機をもたらしています。「戦わない」か、戦うが適当におさめてしまうほうが種の繁栄にはよいのです。強者の遺伝子だけが残っていくだけでは多様性が薄れていきます。ガラパコス状態になって、その島だけでしか生きられなくなってしまいます。弱い者の遺伝子も長い目で見るとある種の病原菌に強いとかいうものがあって、その種の存続に貢献するものもあるのです。
ダーウィンも言っています。
「最も強い者が生き残れるのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残れるのは、変化できるものだ」