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ハイブリッドという言葉に引かれて、この本を読み始めました。かつてはノートに本で気に入ったところを書き写していましたが、いまやコピー機でコピーし、それをパソコンに取り込んでいます。私も幾分かはIT化しています。ハイブリッドはその上に行く読書術だという期待を込めて読み始めました。前書きにも「たくさん本を読んでいるものの、あまりその成果が感じられない人が対象です」と書いていますからますます期待が高まります。本を読むと「物知り」になりますが、それだけではダメで「物語る」ことができないといけないと言っています。
「現在、大きな価値を持っているのは、知識にもとづいて優れた判断が出来る人です。専門知識を活かしてさまざまなことの意味を見極められる人や、細やかな洞察力を発揮できる人も貴重な存在です」(セス・ゴーディン)
「優れた判断」や「細やかな洞察力」はそれなりに立派なものですが、それ以上にそれらを通して何か新しいものを作る・何かを「物語る」ことが読書の究極の終点になるだろうということです。私が思うには大多数の意見に流されない、自分独自の考えを身につけることだということでしょう。特に日本では大多数の意見に従わないものは村八分に会い易いのですが、この国の護送船団方式が現代日本の行き詰まりの元凶なのですから、もはや「みんなで渡れば怖ろしくない」ということでは時代錯誤も甚だしいということになります。
そうはいっても自分独自な考えを持つにはとても難しいことです。大方の人は「コピペ」で終わるでしょう。ツイッターやフェイスブックで「いいね!」と言われて舞い上がっているようでは、独自な考え方とかには遠く及ばず、ありふれた手垢のついた話題に終始するでしょう。
日本では去年本の売り上げが大幅に減ったようです。出版会社も大変です。アメリカでもテレビを見る時間は日に2時間くらいありますが、読書する時間はその「20分の一程度」だそうです。新聞社もドンドンなくなっていっています。人々は携帯でフェイスブックやツイッターやゲームをやって時間を潰しているのでしょう。それにもかかわらず電子書籍機は次から次と売り出されています。著者はこの状態を5億年前のカンブリア紀にたとえ、生命の大爆発のように、電子書籍機も続々と「新種」が生まれてきているのだと言っています。言語の壁も「自動翻訳付きの」書籍機もあり、現在英語から日本語の翻訳精度は65%で、機転を利かせばこの程度の精度でも何とか元の意味はとれそうです。数年の後にはほぼ完璧に翻訳できる電子書籍機も出てくるでしょう。将棋でもプロの将棋指しでもコンピューターに勝てなくなっていますから、そのうち翻訳も翻訳者などいらなくなるかもしれません。グーグルでは「ハベル」というプロジェクトがあり、どのような言語でも即座に翻訳し、「リアルタイムで」会話できるソフトを開発中だそうです。これができると映画でもフィルムに字幕を入れないでも見て楽しむことができるでしょう。小説の作り方も未来では大いに違ってくるようだと著者はいっています。これらの読書機を通して、著者と読者が会話し、新しい筋を作っていくことになるかもしれません。「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがあるように、著者一人では思いもつかないような筋書きも第三者が加われば、奇想天外な物語に発展していくようになるかもしれません。
私は著作権の切れた無料の本をキンドルに入れて読んでいますが、最近ではこれら読む本のなかに点線でここの文章は5人の人がハイライトしていますと出たりしています。まるで古本を読むとき、元の持ち主が赤鉛筆で線を引いたものに出くわしたような気がしました。世の中にはどんな本でも誰かが読んでいるということがわかります。
電子書籍機で心配なのはもしアマゾンが倒産したらどうなるのかということです。かつてハードディスクが熱でパーになったように、あっという間に、キンドルに貯めた本が一瞬のうちに消え去る心配があります。企業なんてものはいつどうなるのかわからないのですから、バックアップを取る必要があります。たとえバックアップがとってあってもキンドルと仕様の違う書籍機ではそれらを再生できないではバックアップも意味を成しません。卑近な例で言うと、ビデオテープを再生しようにも、もはやそのデッキがないといった事態になるかもしれません。そうなると紙の本のほうが2000年過ぎるとボロボロになるかもしれませんが、たかが10年ほどで読めなくなるということはないでしょうから、やはり紙の本はあったほうがいいかもしれません。
「shit」(くそ)はインド・ヨーロッパ語族では、スキャット、サイエンスと同じ語根「skei」を持つそうです。「あるものを他のものと分けることに関係する」ということで、「失せろ!」(スキャット)、「(種子の)散布」(スキャッターリング)「注意散漫」(スキャッターブレイン)、サイエンスにいたっては、ラテン語のscire(切り分ける)という動詞からきています。Shitもscatterもscienceもすべて何かから切り分かれたものであるということになります。
韓国時代劇ドラマでは糞尿を病気の治療で飲ませるシーンが時たまあります。ウヘーと思ったりしますが、この本によりますと、糞食は「健康を増進し病気を防ぐ意味を持つ」と書いてあります。その証拠にウサギは糞尿によってたんぱく質と水溶性ビタミンを摂取していると言っています。ネズミもそうであり、糞を食べさせないとビタミンB12とビタミンKの欠乏症になるそうです。私は犬を飼っていましたが、犬も自分の糞を食べていました。日本でも一時尿を飲む健康法がはやりました。中国の皇帝は少女の尿を飲んで若返りを図りました。さすがに糞までは食べようとは思いませんが、清純な少女の尿なら何か効果があるのではないかと思ってしまいます。
中国の食品偽装で下水溝から油を掬い取って、それを精製して商品にしていたのがありまたが、日本では下水汚泥から人工肉を作っています。勿論これは市販されていません。研究のために作ったものです。岡山の研究員・池田満之が作ったもので、「牛肉に似た味」がするということで、研究者たちは食べたのでしょう。糞便中のバクテリアが糞便をたんぱく質や炭水化物や脂肪に作り変えていたのです。やがて食糧危機が訪れるというのですから、我々は糞尿からも食物を生産しないといけなくなるでしょう。また糞尿に植えつけられる蝿のうじ虫も、これ全体がたんぱく質なので、やはりこのうじ虫も加工して食料にすると計画もあります。また山本麻由は牛の糞からバニラエッセンスのバニリンを抽出することに成功しています。このように糞尿は宝の山なのです。水洗トイレで流してしまっては、みすみす財貨を捨てるようなものです。
またパソコンに糞尿を設置して、それを発電に利用する計画もあります。自分の糞があれば電気など電線から引く必要がありません。化石燃料や原子力は不用になるかもしれません。もはや糞尿はゴミではなく資源なのです。糞尿からはプラスティックもできます。
オランダでは700万トンの牛の糞尿をインドに燃料として輸出する計画がありました。しかしヨーロッパでは家畜に抗生物質を注入しているので、インドは耐性菌を恐れてその話はオジャンになりましたが、いまや糞尿は輸出産品として重要な地位を占めているのです。日本は資源があまりない国ですから、1億も人がいるということは、それらが出す糞尿で世界で有数の資源大国になっているというこということで、衰退する日本では唯一この糞尿が起死回生の大本になる可能性があります。
世界各国を旅行して、時たまパソコンをチョコチョコと動かして、収入を得ている。そのような生活をしている人を「ノマド」企業家と呼ばれています。「ノマド」とは牧畜という意味で、定住しないで放浪する民です。弥生時代から田圃に縛り付けられた日本人には馴染めにくい生活です。田圃に縛り付けられないとしても、毎日暑いのにかぼちゃを炊いている私にとって、このようなことでカネが稼げるのかと不思議に思ってしまいます。「すき屋」の従業員のように、月100時間も残業してもまともな暮らしも出来ないような給料しかもらえないということもあるのに、一日経った二、三十分のパソコンの操作で年収1000万円も儲けるなんて、世の中狂っているとしか思われない。
クリス・ギレボー自身、はじめはコーヒーの輸入販売をして、インターネットで売りさばいていました。それからボランティアなどをして世界を歩き回って、その経験からいかに安く航空券を購入するかを本にしてインターネットで販売したところ、これが売れてウハウハの生活になったということです。この種のコンサルタントをホームページに展開して、ますます安定的なり、いまでは明日は香港、あさっては見知らぬ国を観光しているという生活をしています。またこれが商売につながり、観光の費用を立て替えてくれています。
個人でやる商売は大変なものですが、アメリカでも日本の田圃に縛られた百姓のイメージを彷彿させるマット屋があります。この人はリストラされ、あるところでマットが売れ残ったので、それを買い取り、マットを売り始めます。売れたらこの人はマットを自転車に積んで配達します。これが評判になって商売として成り立ったということです。
この本の解説者が言っています。
「もはや企業にいるほうがリスキーで、独立した方が安全」
「ちょっとしたアイディア」と「たった一万円の資金」で年収1000万円も夢ではなにのだと強調しています。
「これだけ頭が良くなって、お代はたったの税込み821円、それほどこの本お得だから、読まにゃ損々!」
作者の名前も珍しい。ときまさかずと読ませる。ペンネームなのでしょうか?
「人は自然も人工物も、ありのままに見ようとはせず、あくまでも自ら作った分類に従って見ようとする。自ら作った文化というフィルターをかけ、そのフィルターを通してしか認識しようとはしないのだ。そしてそのあげく、フィルターの存在にも、自らが「常識」「当たり前」の権化と化していることにも気づかないのが、人という変な動物なのだ」
まさしく言葉そのものが一種のフィルターそのもので、人の考え方もその使用する言葉に引きずられて形になって行きます。雪に関する名称も寒い地域では数多くありますが、熱帯では雪そのものがないのですから、その名称すらありません。ここにも出ていますが色に関しても、エチオピアのボディ人は98色も見分けられます。たぶん生きるためにはその色を見極めないとまずいことがあるのでしょう。植物や動物の毒を持つものと持たないものの見極めのためにその能力が発達したのかもしれません。
かつての大航海時代から欧米先進国が世界を席捲していた頃、これらの国の文化こそ世界で最高の文化であるということになっていました。大砲と宣教師とで後進国だと思われる国を侵略していきました。なかにはモンテーニュのように、連れてこられたアメリカのインディアンを見て、ヨーロッパの騎士に劣らず毅然としたところがある感想を述べた人もいますが、大方はサーカスの見世物として人間と見える動物として見ていたのでしょう。
20世紀近くなると、言語の研究や、それらの地域の生活や文化を研究することで欧米の文化が唯一絶対的なものではなく、まるで天動説から地動説になったように、欧米の文化も不動で中心的なものではなく、おのおのの文化と同じように地球に住み分ける文化の一つに過ぎないという覚醒につながります。
特に日本は島国でありますから、おまけに近眼国でありますから、分厚いレンズを通してモノを見ますから、他国には理解しがたいことがあるような気がします。我々はもっとモンテーニュを見習って、物事を偏見なく見るようにしなければならいと思われます。