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自然ではアミノ酸は左旋性で炭水化物は右旋律性だそうです。原子の結びつきが螺旋状にそうなっているのでしょう。人工的に逆のアミノ酸や炭水化物を作ることも出来ます。たとえば右旋性のアミノ酸で作った肉は人間では消化できません。消化する酵素がそれに適応しないからです。それか硬くて食えないだろうと言っています。味も匂いも全く違ったものになるだろうとも言っています。睡眠薬のサリドマイドで奇形児が生まれた事件がありました。人工的に作った薬剤では右旋性と左旋性とが混在して生成します。生体に沿わないものが遺伝子に作用して、骨の成長を促す遺伝子を改変したのでしょう。自然にないものはよくよく注意しないと、とんでもない結果をもたらします。遺伝子を操作して害虫に強い大豆やとうもろこしがアメリカで植えつけられていますが、果たしていいものか悪いものかはたかが100年くらいでは結果はでないでしょう。自然的にはめったに出来ないものが、技術の発展でドンドンできると、いつの間にかサリドマイドの状況と同じことになるのではないかと心配しています。私はあと少ししか寿命がないのですが、納豆は国産で、アメリカ大豆の遺伝子操作をしているものはを買わないようにしています。若い頃はサッカリンやズルチンを散々摂取していたのに、いまさらこのようなことに注意しても効果はないかもしれませんが、老いてこそますます食物に注意を払わないと、生きれるものも生きられないでしょう。もちろんハンバーガー店のハンバーガーもかつても食ったことはないし、いまからも食べないでしょう。
なぜ自然界ではアミノ酸は左旋性なのでしょうか?まだはっきりわかっていません。地球の自転なのか、公転なのか、はたまた銀河の渦の影響なのか。もし私が生まれ変わったら、今度は化学をみっちり学んで、ノーベル賞を狙うでしょう。現世の私の高校生時代、モルの計算式がさっぱりわからなかったものです。
「元日や 餅で押し出す 去年糞」(金子伊昔紅)
何とも骨太の俳句である。力がみなぎっている感じだ。力みすぎて、脳溢血にならないように気をつけたいものだ。
「大海月(おおくらげ) ゆらりはるかに 富士の山」(山崎十生)
卑小なものと偉大なものの対比がすばらしい。くらげと富士山を結びつけることさえ思いつかない。
「敬老の 日の過ぎ次の 日も過ぎて」(今井鶴子)
淡々と日日は過ぎ去っていく。淡々と死に行くだけだ。
「啄木忌 いくたび職を かへてもや」(安住 教)
今や日本は終身雇用制ではなくなっている。大方のものが啄木のように貧窮に喘いでいるであろう。
「小便の 身ぶるい笑へ きりぎりす」(小林一茶)
初秋の日であろう。朝まで我慢できなくて、一茶が小便した時、キリギリスが鳴いた。大いに笑へ、大いに鳴け、俺もお前も後わずかな命だからな、という心境なのであろう。
「咳をしても一人」(尾崎放哉)
有名な句だ。放哉の孤独がわかる。それも1000年の孤独だ。のたれ死ぬ人の句である。
「かき氷 シェーンが去りし 少年の日」(角川春樹)
「シェーン、カムバック」映画の最後で少年が叫ぶ。いまだにそのシーンが焼きついている。私もあの頃にカムバックしたい。
「払うても 払うてもモンゴルの蝿」(境野大波)
モンゴルはそんなに蝿が多いのか?蝿を女に見立てて、願望の句ができる。
「払うても 払うても 私に取り付く女たち」
「やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声」(松尾芭蕉)
蝉は元気そうに見えてもたかが2週間の命だ。いまもせみの鳴き声が聞こえる。黒沢明の映画を思い出す。ガンを宣告された市役所の職員が最後だと思って公園を作る。これも最後のシーンで主人公が公園のブランコで口ずさむ歌が涙をそそる。
「太刀魚や 遠き光を 撥ね返し」(佐藤文香)
海の中での太刀魚は本当にキラキラしていることであろう。闇の中の蛍といい勝負だ。
「ふるづけに 刻む生姜や 朝ぐもり」(鈴木砂女)
私の店に来れば刻み生姜の古漬けはいつも食べられる。
「年問えば 手袋ぬぎて 指だす子」(小沢昭一)
この人も死んだ。私の周りからドンドン人が死んでいく。またガンになったとか、脳梗塞でおかしくなったとか、心臓にカテーテルを入れた手術をしたという話がしょっちゅうだ。
「気がついたときは 荒野の蝿だった」(津沢マサ子)
意味はわからないが、これに触発されてこんな句も作ってみた。
「気がついたときは末期のガンだった」自分ながら安易な句作だ。こんなのはダメだ。といっても、このような不安もぬぐいきれない。
「こめかみを 機関車がくろく 突き抜ける」(藤木清子)
たぶん頭痛のことだろう。機関車が通るくらいだから、さぞかし痛いであろう。
「うつくしや 障子の穴の 天の川」(小林一茶)
ボロ屋と天の川の対比が尋常では思いつかない。携帯に缶きりの機能がついたようなものだ。
「下駄買うて 箪笥の上や 年の暮れ」(永井荷風)
誰もが正月、気分を一新したい。ひねくれものの荷風も常人と変わらぬ。
「わが死後へ 澄み行く梅酒 漬けにけり」(正木浩一)
私の父が死んだときも、マムシをいれた焼酎やわけのわからない液体の壜が多くあった。何年後すべて妹が捨ててしまった。「いらんものはドンドンすてないときりがつかないわよ」と言いながら。
「すごすごと包丁差しに戻るなり」(広瀬ちえみ)
佐賀県の高校生殺害がまず頭に浮かんだ。広瀬ちえみはかっとなって包丁を手に取ったが、思いなおして包丁を元の場所に戻した。この高校生は自制がきかなかったのか。
「愛されずして 油虫 ひかり 翔つ」(橋本多佳子)
カブトムシのようにめでられる虫もいれば油虫のように毛嫌いされる虫もいる。人間は勝手なものだ。
「ひぐらしの真只中や 箸はこぶ」(川崎展宏)
これも独り者の句であると解説にある。私も蝉なくのを聞きながら朝食をとった。あと何回夏を過ごせるのかと思いつつ。
「私は高校で学年最下位から横浜国立大学に入学し、就職して全国約1000人中ビリのセールスマンからトップセールスマンになり、会社を辞めて収入ゼロから年収1億円になり、売れない作家から売り上げ25万部のベストセラー作家にまでなれました」
肝心の、「「会社を辞めて収入ゼロから年収1億円」なったことの説明がこの本では抜けています。何で年収1億円になったことが書かれていません。そこでこの本に貼り付けられている川島のメールマガジンとブログにジャンプしてみました。そこには「パソコン1台で最新の稼ぎ」ができると出ています。具体的には、アフィリエイト、オークション、メルマガ増加ノウハウ等々。私が思うにはメルマガやファイスブック、ツイッターなどで読者を多く獲得して、そこに会社の宣伝を貼り付け、広告費を貰い受けるということではないでしょうか。だから川島のブログやメルマガ見れば見るほどアクセス数が上がり、川島への会社の宣伝広告費が上がっていくことになり、川島の収入が増えるということになります。IT先進者が後進者を食い物にしているともいえるでしょう。素敵なキャッチフレーズ「働かないで1億円」に引っかかって彼のブログやファイスブックを見るたびに彼の収入は増え、かつまたそこに貼り付けている自分が書いた本の宣伝で、また本も売れ、彼にとっては願ったりかなったりの世界になってしまうということになります。
私の場合、やはりこのキャッチフレーズに引っかかってこの本を読みましたが、図書館で借りているので、直接的には川島の印税に寄与しませんが、メルマガ、ファイスブックを開いたりしましたので、そのアクセス数に寄与したことになり、彼の収入を幾分かは増やしたような気もします。
この本の中身はあまりたいしたことはありません。夢を実現するためには・・・というノウハウなどは過去何度も蒸し返されて書かれています。頭の回転を早くするためには糖分を取れというのは、ここで仰々しく書かないまでも、小学生すらわかっていることです。
楊逸の父と母は教師であったので、毛沢東時代「下放」にあっています。都会の大連から酷寒の辺境に移動させられています。窓にはガラスもはめていなく、寒風が吹き込んでくるようなバラックに住まわされます。よく一家が生き残ったものです。ひ弱な日本人なら死んでいるでしょう。楊逸一家は畑を耕し、豚、アヒル、鶏、ヤギなどを飼い、2年目からは何とかやっていけるようになります。3年目で政策が変わり、また大連に戻ることになりますが、そのとき飼い犬の黒が屠られて、家中が泣いています。黒の毛皮は記念として楊家に残っています。肉は村の人たちが食べたのでしょう。
楊逸は日本に留学して、2008年には芥川賞もとっています。何と優秀な人なのでしょうか。貧窮から立ち上がっていく人は真面目にコツコツ努力していく人だということがわかります。いま日本では中国批判が盛んですが、大部分の中国人は貧乏で、真面目であろうと思われます。世界経済の二位の地位を中国に奪われて、やっかんでいるとしか思われないような批判もあります。新幹線の技術を盗んだということも、かつては日本もアメリカの技術を盗んできたことと同じことです。中国もある面日本を手本にしていると思われます。ということは中国を面罵することはかつての自分たち日本を面罵していることにもなるということになります。国として対立することがありますが、決して戦前のように軍事で解決をしないで、あくまでも外交でやってほしいものです。二度とあの「ぬかるみの日中戦争」の十年にしてはなりません。
楊逸は最後にこう書いています。
「日本に来る直前までの、生まれてから22年間は、貧しい食生活だったが、こうして文字に書き出したことによって、かつては味わったことのない郷愁が、じわじわとにじみ出てきた。時には堪え難い思いでもあり、幸せとはいえない日々の、おいしい、から程遠い食生活でではあったけれど。・・・往時如煙、包まれていたつらい風景も、幾分かはぼやけて美しく見えてきた。それはあたかも、かつての貧乏食の代表格だった大根、白菜が、きょうでは健康食として美しく変貌を遂げたかのようである。」
和子さんと角栄には二人の息子がいますが、いま何をしているのでしょう。政治家にでもなれば親の栄光でいいところまでいけるでしょうに。本妻にも息子がいましたが、5歳で病気でなくなっています。本妻の娘・娘の真紀子が田中の地盤を引き継いでいます。和子さんが息子を生んだ途端本妻と和子さんの仲が微妙に冷たくなっていきます。和子さんの息子が4歳の時、新潟の角栄の父母が本妻の娘・真紀子に引き合わせたところ、真紀子は泣きじゃくって、ほうほうのていでこの会合から和子と息子は逃げ帰ったと記しています。これ以後本宅と妾宅の間は溝ができてしまって、角栄が脳梗塞で倒れたときから、和子は角栄に会えなくなってしまいます。葬式でも息子の長男が娘3人と出たのですが、焼香もできなかったそうです。角栄も体や言葉が不自由になってはこの両者をコントロールすることができなくなったのでしょう。悲しい晩年です。かつては日本を動かし、日中友好条約を結んだこの権力者も、本宅と妾宅の仲を取り持つことが出来ませんでした。和子さんの前に、もう一人角栄は芸者の愛人をもったことがありますが、この愛人は自分の洗濯物を本妻に洗わさせていたということです。本妻はその愚痴を和子さんに漏らしたこともあり、それで二人はそれなりに連帯をとった時期もありました。本妻の息子が病死し、反対に妾に息子が生まれたということになれは、女たちの地位関係が揺れ動きます。
「岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる」
角栄はよくこの歌を色紙に書いていたそうですが、角栄と女たちの間は単にさらさらとはいかなかったようであります。