[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
新幹線も水中翼船もないのに古代日本と朝鮮の間には頻繁に行き来があったことがわかります。物流だけではなく人的な交流も盛んです。つい最近の戦前の朝鮮人強制徴用のようなものではなく、招聘されて日本に来ていろいろな技術をもたらした渡来人も多くいます。古代の外交を掌握したのが葛城氏で、天皇家と並び立つ豪族です。葛城氏系の女性が天皇家の后になって、両者は深い関係を持ちますが、決して仲睦まじいというものではなく、「ある種の緊張関係」を持った関係だったと本書は書いています。葛城襲津彦が朝鮮の新羅を撃てと命令を受けたのに、新羅から賄賂(新羅の美人二人)をもらって、新羅と敵対する加羅国を攻めています。このことで天皇の怒りを買って、葛城襲津彦は天皇の后になっていた妹に仲介を頼んでいます。
神話では史実がよくデフォルメされます。
例えば、雄略天皇が葛城山で狩をしていたとき、大きなイノシシが現れて、雄略天皇は木の枝に追い詰められたという逸話があります。これは大和朝廷が近畿地方を制定するとき、そこにはすんなりとはいかなくて、一度や二度窮地に追い込められたということを示しています。そのイノシシが葛城氏で、4,5世紀頃はこの両豪族はある妥協点を見出して、並立していたということが想像されます。後に葛城氏は天皇家に滅ぼされますが、神話ではイノシシとして残ったのでしょう。
後に大化の改新で殺された蘇我一族も葛城氏系から出たもので、女帝の推古天皇に自分の出身地の葛城県を所望していますが、断られています。滅ぼされたといっても眷族は多くいたのでしょうから、その中から蘇我一族のようにのしあがってくるのもいたでしょう。
良寛が最も毛嫌いをしたものは料理屋の料理です。要は「割烹」と名がつく板前の料理です。酒のための料理で、飯のための「おかず」としての料理ではありません。こけおどしで、見た目ばかりきれいな、腹がふとるでもない、現代でもあるところの大皿にちょこんと乗った料理です。現代でもこの「割烹」の思想が大手を振ってまかり通っているからたまりません。「料理の鉄人」などが作る料理はまさしくこの手のものです。これらの料理人が自慢たらしく作るものは家庭で食べているようなおかずとしての料理とは随分かけ離れているようです。そうかといって今家庭では鯖の煮たもの作っているでしょうか?切り干し大根を煮たりしているでしょうか?大方は工場やデパチカやスーパーで作られた惣菜物を利用していることでしょう。これら普通の人々も「割烹」の料理こそが本物の料理で、家庭で食べるようなものは料理ではないという、悪しき考えに染まっています。
西洋料理も中国料理も宴会料理はありますが、日本ほど生活料理とかけ離れた料理はありません。日々おいしく食べるものは、これら板前によれば料理の範疇に入らないということです。
「割烹」の「割」とは包丁捌きのことであり、「烹」とは元の形を崩さないで煮るという事です。キャベツだって手でちぎったほうがある料理法においてはおいしい時もあります。とこらがこれら板前人はそういうことすら思いもつきません。形を崩さないために味もおろそかになります。実際はちょこっとしかないので味などわかるはないのでしょうけど、これをありがたがって、また高い銭を払って食べているようでは滑稽と言うほかありません。以上が遠藤哲夫のだいたいの論旨です。
私の店は父母の時代「むすび」を専門にやって「むさし」を凌駕していましたが、やがてホステスさんたちがおかずを食べたいということでおかずを作り始めます。ところが時代が経るとコンビニが林立し、むすびや弁当などが出回るようになると、徐々に衰退し、飲んだ後の茶漬けを出すようになりますが、これも嗜好の変化でラーメンに食われ、いま私がやっている店の状態はおかずもあり、むすびも残り、うどん、茶漬けもあるがこれとして特長のない店になっています。お客の中には馬鹿にした態度を取る人もいますが、遠藤の言いように悪しき「割烹」文化に汚染された人たちで、いまではワインとかチーズで騙されやすい人たちだなと思うことにしています。
この本の通り茶碗蒸しを作りましたが、まあうまくできました。蒸し器を使って大掛かりにする必要がありません。一人分だけを作るには電子レンジは重宝します。一人分のチャーハンも簡単にできます。洗い物も少なくてすみ、年寄りにはありがたいことです。ナスビもラップをまいてチンし、それから調味液につけると、油で炒めたり、揚げたりする必要がありません。これもやってみましたが、油がないぶんあっさりしています。若い人には物足らないかもしれませんが、老人には「むつこう」なくていいものです。以前からジャガイモを蒸すのに電子レンジを使っていました。料理の準備段階やおかずを温めたりするだけに使っていましたが、この本を読んだことで料理を完成させることもできることがわかりました。焼き芋だってできます。石焼イモがうまいのは時間をかけることによって、「さつま芋に含まれる糖化酵素がむっくりと目を覚まし、芋のでんぷんを糖に変え始めます」ということで、この変化になるまで「20分~30分」かかるので、電子レンジは弱にして、石焼芋と同じ状態にすればいいのです。これも実験してみましょう。
料理には「四面体」(注)というものがありまして、食材を基底した三角錐が考えられています。三角錐の頂点に「火」があって、食材の基底部分から3本の柱が頂点の火に向かっていきます。最も簡単なのは基底部分の食材を「生」のまま食べることです。この料理は「火」を使わないから、柱などありません。柱の根本には「空気」、「水」、「油」の三つがあります。「空気」から「火」に向かっていく柱には、「干物」「燻製」「ロースト」「グリル」などの料理が含まれます。「水」から出てくる柱には、「煮物」「スープ」「シチュー」などです。「油」から立ち上がる柱には、「揚げ物」「炒め物」「煎り物」などがあります。この四面体で世界のほとんどの料理は理解できます。電子レンジはこの「水から火」と「油から火」の柱の料理をまかなえる調理器具だと思われます。電子レンジの料理はまだまだ研究の余地があるようです。
(注)玉村豊男「料理の四面体」
京都大学中、近所の床屋の主人に将棋の強い人がいて、その人について将棋を習い、その後文壇で彼以上に将棋で強いものがいなくなります。京都に行ったのは、一高で、マントを質入れし、それが菊池寛の友が他の一高生のものを盗んだものと発覚し、友をかばって退学されたのです。卒業の三ヶ月前のことです。菊池寛のよいところは義侠心があることです。直木三十五が貧乏している時、黙って菊池寛が20円くれたことに感謝しています。芥川も菊池寛を評して「兄貴」のようなものだと言っています。芥川が自殺した後、菊池寛は忙しくて、芥川が話がっている様子だったが、相手ができなかったことを悔いています。
映画俳優の志賀暁子が堕胎をして世間に糾弾された時、かばったのは菊池寛です。今はどうかしれませんが、当時の女優は芸者のようなもので、監督や会社の重役に身をまかせないとやっていけなかったのでしょう。女だけが咎を問われて、男に何もないのはおかしいことです。菊池寛は自らも弁護し、なおかつ文藝春秋で志賀暁子の弁護士・鈴木義男にも書かせています。久米正雄が友の映画監督をかばい、志賀暁子を悪く言ったことへの反論です。これには山本有三も絡み、かつて夏目漱石の娘・筆子事件にまつわる関係者がそろったことになります。筆子事件とは、久米正雄が筆子を恋し、山本有三が匿名で久米の女癖の悪いことを文書にしてばらまいたということです。山本有三は志賀暁子をもて遊んだ映画監督「J」を「ステッキを振って自由に街をあるいているではないか」と皮肉りましたが、久米正雄は「J よ、君も、謂わば吾々代表者として、殉教したものに過ぎぬ。ステッキを打ち振り、銀座を平気で歩け!」と書いています。旧怨の復活です。
日本が軍部主導の戦時下になっていく時、菊池寛もはからずもその体制に迎合するようになります。いくら菊池寛が自由主義の持ち主であろうとも、時代の枠を突き抜けることはできません。それか菊池寛はこの抑圧的な体制の中、文学者として沈黙をするよりは、何とかこれらの制限をかいくぐって、表現者としての自分を通したかったのかもしれません。
コペルニクスからそれ以降の天文学者によって、地球は宇宙の中心でないことがわかり、天の川銀河の端でさまようありふれた恒星の周りをまわる、これもありふれた惑星のひとつであるということがわかりました。そうなると人間は神から選ばれて存在するものではなく、宇宙の無数の星の周りを回る惑星には人間以上に文化の進んだ知的生物がいるのではないかと想像されます。神さえいてもいなくてもどうでもいいような存在になってきました。
ところが宇宙開闢以来人間が生まれるまでの過程を考えると、まるで人間を誕生させるように、宇宙は「絶妙」な数値で成り立っていることがわかりました。
「この宇宙を支配する物理法則があたかも生命、認識主体となる人類を生むように、都合よく微調整されている」
宇宙は人間に知られることを望んでいるかのようです。人間がいないと宇宙はあってもないと等しいものです。知的生物がいないと、宇宙は観客のいない演劇をやっているようなものです。宇宙は人間に見られたがっている。だから宇宙は奇跡の連続の数値を打ち出して、人間が生まれるように「微調整」してきたのだと。これを「人間原理」という物理学の新しい考え方です。振り出しに戻って、また人間こそが宇宙の中心となったのです。人間が宇宙の存在を認識できるから宇宙はあるということになります。宇宙も寂しさに耐えられないのでしょう。
ブラックホールがあります。私が思うに、我々の宇宙の傍らに別の宇宙があって、ブラックホールを介して別の宇宙とつながっているのではないかと。膜宇宙という考え方もあります。膜宇宙の接触はまるで男と女ように寂しさから「ホール」を通してつながっているのではないかと思われます。