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800年から1500年まで温暖化で、それ以降小氷河期になり、1900年ごろからまた温度が上がりました。原因はいろいろ言われていますが、はっきりしたことはわからないようです。でもこの最近はこれだけ人類が増えると、人類の活動が温度を引き上げているということは間違いないようです。千年前の温暖化も、中国では、ほとんど森林が切り倒され、田畑になり、干ばつで干からび、荒れ地になっていたところも多いという状況になっていました。巨岩顔のイースター島でも、島全体の森が切り崩され、それ以降材木が取れないものですから、カヌーを作ることができなくなり、以前にまして文明が退化した状態になっています。温暖化の最大の被害は干ばつで、食料の危機が起こると民族移動が始まります。現在もアフリカからヨーロッパに難民が駆け込んでいますが、政治的理由よりは食糧危機でアフリカを脱出している人も多いことでしょう。オーストラリアでも、アメリカでも、ブラジルでも森林の大火災も温暖化の特徴です。100億円もかけて宇宙旅行を楽しむというのは、本当に資源の無駄遣いだと思われます。
中国で儒教が国教になった頃から、女性に「殉節」とか「守節」とかが暗黙の裡に強制させられるようになります。「殉節」とは亭主が死に、二人の間に男の子が生まれていないときは、その後を追って自殺するというもの。「守節」とは子供がいれば、その養育と婚姻先の父母に死ぬまで尽くすというもの。それぞれの王朝でそのような女性を顕彰した門ができています。これを見て石平は孔子がそのような生き方を女性に強制したのかと調べてみたら、一切そのようなことはありません。孔子死後、200年くらいたって前漢のころから、小賢しい儒学者が、儒学を国教にしてもらうために、おもねって、独裁者の都合のいい支配体制の教義を作ったのです。単なる親への孝行が、たいそらしい忠義に変わります。論語を読めば、孔子は常識以上なことは言っていません。簡単に言えば他人に対して親切にしなさいということです。大工のキリストがパウロによって世界宗教になったように、孔子も各時代の知恵者によって、大きく変節されてきたのです。常々孔子は「怪力乱神を語らず」と言っていたのに、晩年易経の研究をしていたというのはおかしいと思っていたのですが、これも小賢しい知恵者が捏造したものです。常識人である孔子が占いなど信ずるはずがありません。幾分か日本も儒学に影響を受けていますが、もう古墳時代に天皇が殉死を禁止しています。明治時代、乃木希典夫婦の殉死がありましたが、明治天皇は喜んだでしょうか?科挙の試験問題のテキストにすぎない四書五経にがんじがらめに縛られて中国と朝鮮は何と融通の利かない人たちが多かったということがわかります。
この本の出版は昭和48年で、この年デン助劇団は解散したのです。デン助自身の糖尿病の悪化、浅草という町の衰退、それにもましてデン助劇団が面白くなくなったのです。時代の流れや、マンネリで笑いが取れなくなってしまいました。私が中学生のころテレビでは東のデン助、西の寛美と言われ、週末には劇場中継がなされていました。この頃が最高潮だったのでしょう。両方ともアホ役でありましたが、人情味があって思わずホロリとしたものです。しかし高度成長が始まり、金儲けに邁進し始めると、このようなしみったれの貧乏くさい芝居は飽きられます。もはや焼酎で管をまく時代ではなくなったのです。その頃からワインの消費が高まります。ワイングラスを片手にしては、デン助、寛美の芝居を観られてものではありません。
デン助ははじめタップダンスの先生をしていたのです。意外や意外です。タップダンスだけでは場が持たないために、合間に寸劇を入れたのです。それが本末転倒して寸劇がメインになってきます。戦後、ドサ周りから浅草に入っていきます。テレビの仕事も入り、一躍大人気者となります。ドサ周りでは地元のヤクザに興行主になって、取り仕切ります。現在でも芸能プロダクションというのはそういう系統が多いのでしょう。デン助も座長になって、座員の女の子と懇ろになってと言っています。当時の女性は男の引き立てがないと食ってはいけなのですから、力ある男には屈するより仕方なかったのでしょう。現在ではパワハラ、セクハラと訴えられます。
この前の大統領選で、負けたトランプがホワイトハウスに乗り込めとアジしたものですから、何十人かが銃をもって乱入し、何人かが死んでいます。これでよく他国に民主度が低いと説教をしたものです。アメリカの放送局は不偏不党を掲げているものは一切ありません。とりわけFOXという放送局はゴチゴチの共和党寄りの放送局で、相手が不利になるような嘘など平気で流しています。トランプのようにアジったりして、国会議員の何人も銃で撃たれて死んだり怪我をしています。何しろ一般住民が銃をもっているのですから、放送局が襲えと言えば、何人かは銃をもって駆けつけるのです。この銃の保持も独特です。はじめはイギリスの植民地主義に対してアメリカ人民が銃でもって戦ったということで、政府に対して市民が銃を持つことは当たり前だということになりました。アメリカが独立しても、連邦政府と州とはかつてのイギリスとアメリカ市民ということになります。だからアメリカの保守党は政府が小さければ小さいほどよく、我々を干渉させないで、つまり自由を制限させないで、好きなように生きていくことを熱望する党なのです。だからオバマの国民皆保険の政策は怠惰な国民に便宜を与えるだけで、金儲け熱心な共和党の人たちから税金をむしり取って、これらの怠惰な国民に与え、甘やかしているだけだと主張しているのです。簡単に言えば、奴隷であった黒人に対して白人は世話をする必要が一切ないと言っているのです。人種間のヘイト合戦は醜いものがありますが、日本にもそういうものがありますから、他国を笑う前に、言質を取られないように注意すべきです。
英語のタイトルでは「Discovering America Through Theater」となっています。日本語のタイトルではアメリカのテレビドラマを通じてアメリカ社会を考えると思ってしまいます。錯覚を通して出版数を伸ばそうとしたのでしょう。変に小難しい演劇の解説よりは、はやっているテレビのドラマを解説の方が肩が凝らないし、旬の女優や男優が出て話題に事欠かないでしょう。私も今はやっているテレビドラマを通じて、アメリカではこういう問題が話題になっているのかを知りたいがためにこの本を手に取ったのですが、肩透かしに合ったようなものです。そうはいっても、高校生くらいの年頃が主人公の発情青春ドラマを見ても実際は何ら意味のないものでしょう。
アメリカ演劇ですぐ思い出されるのは、「欲望という名の電車」と「セールスマンの死」でしょう。「欲望という名の電車」は1947年私が生まれた時にできた作品です。この本では「男と女のパワー・ポリティクスととらえています。第二次世界大戦中、アメリカの女性は軍需工場などに働きに出ます。それを通して戦後、女性は主婦として家庭に収まるべきものではないという考えが広がります。女性も欲望を持ち自由に生きていこうとする考え方と、あくまでも男の付属物として慎み深く生きていかないといけないという男の考え方の対立だそうです。
「セールスマンの死」も初演が1949年です。アーサー・ミラーの作品です。今でいう社畜の悲しみをうたっているものです。アメリカンドリームも日本ドリームも同じものです。結局は父親というものは子供のために犠牲になることです。後続するものたちのために自殺してまでも保険金を得て助けたいという親心です。