[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
この本には多くのグラフが載っています。これら多くのデーター(鉱物層)からマイニング(採掘)するためには、相当の訓練が必要です。三浦展はパルコでファッション雑誌系の編集を手かげていたので、その経験が生かされているのでしょう。いづれにしても、数字の羅列から、意味を読み取り、解釈するという工程が必要です。ところがこの解釈がニュートンのような物理学のようにすっきりといかないもので、そこにはどうしてもバイアス(偏見)なるものが入り、俗に統計で嘘をつくということも起こります。今年物理学で気候変動温暖化の理論を打建てた人にノーベル賞が贈られました。反対に寒冷化が起こっているという人もいます。どうも社会が進歩すると真実は一つでは収まり切れないように思われます。どうも言ったものが勝ちというわけで、フランスの詩人ランボーが母音には色があるというとそれも真実ではないかと思います。それに特許制度も絡んでいて、どんな思い付きも早く登録しておかないと、他人がすぐそれに気づくといった、情報の敏速さもあります。
日本の周辺国には韓国、北朝鮮、中国、ロシアと敵対する国がひしめいています。有史以前、ユーラシア大陸から日本に流れ着いた日本人の原型は、ユーラシア大陸の各民族の圧迫から逃れてきたものだと推察されます。おまけに日本海もできてユーラシア大陸から隔絶され、長らく平和を保たれてきたのではないかと思われます。ユーラシア大陸では各民族の興亡で、民族の絶滅が度々起こっています。日本ではそれほどの急激な大絶滅は起こらないで、争いも起こったかもしれませんが、後から入った人も前の人たちと中和しながら徐々に日本民族を形成していったのでしょう。朝鮮のように過去何千回も異民族に蹂躙されたこともないし、中国のようにたびたび異民族の皇帝をいだいたこともありません。たった一回、この前の敗戦でマッカーサーが君臨しただけです。このような歴史的背景で、中国は身を守るためには金貨、宝石などが大事で、韓国では蹂躙した国(特に日本)に対して声高に腹を立て、ロシアは兵器作りだけが進歩し、日本を恐喝しようとしています。お笑いの質にしても、日本は親父ギャグのようなものが多く、深みはありません。中国は昔から文明国でありますから、論理的ですらあります。韓国はただ怒り狂っているだけですから、そのこと自体が笑いを誘います。ロシアなどは寒いだけで笑いなどありません。ウオッカを飲んで喧嘩するだけです。
永井荷風が明治大正にかけて江戸情緒がなくなっていくことに対して悲しみと懐かしさを書いているように、令和の三浦展は、高度成長期から下町が「近代化」し、工場が建てられ、それに伴って労働者が住み着き、活気ある商店街が形成された状況、ある面、働けばみんなが中間層の生活ができるという明るい未来を持った時代をノストラジックに書いています。今ではこれら下町も、工場が少なくなり、商店街も活気がなくなり、建つのは超高層のタワーマンション、まさかこのようなマンションから、すっぴんでチョコチョコと出て、商店街のコロッケ屋から晩の夕食のコロッケを気軽に買うこともできないだろう。昭和30年代高度成長が始まり、コロッケからトンカツ、ステーキに寿司と、徐々にグレイドアップしていきました。中卒でも高卒でもがんばればそれなりの生活ができた時代です。現在の、内面矛盾や差別があるにもかかわらず、表面上取澄ました態度を取り、問題がないかのように生きている人が多い。
三浦展に言う「社会散歩」とは「文学散歩でもなく建築散歩でもない。人々の汗と涙の歴史をたどる」ということです。
このたび広島県出身の岸田文雄が内閣総理大臣になりましたが、敗戦後の総選挙で、広島出身の、それもタレント議員の第一号として石田一松が当選しています。石田一松はヴァイオリンを弾きながら、世相や政治を批判する歌を歌う演歌師であります。明治の初めころから壮士演歌というものがあって、自分の主義主張を音楽性もなく、ただ怒鳴っていただけの演歌を、添田唖蝉坊という人が音楽性を加味し、歌の内容も批判性とユーモア性のこもったものになりました。これらを街中で歌い、その歌詞を記した本を売って生活の糧としていたのです。
石田一松の実家は府中町で米屋をしていましたが、失敗し、橋本町に移りポンプ屋をはじめました。そこそこ生活できるようになります。中学は竹屋町にあった明道中学校という私立の中学校で、他県から手に負えないような学生が大挙して集まった学校です。学校の窓ガラスは破られ、日々学生同士の喧嘩三昧が繰り返されていました。後に大正か、昭和初期ごろか、潰れてなくなりましたが、私が竹屋小学校に通っていたころ、今のフジというスーパーマーケットに中高一貫男子校があり、これがまた「ボンクラ」が多く、喧嘩ばかりしていました。何十年もたっていても、同じようなものができるというのは、どうもその地が何かを呼び起こさせるものがあるようです。一松も明道中学校で相撲部に入り、橋本町から竹屋町まで行く間に遊郭街があり、そこでヤクザと喧嘩し、広島に居れなくなり、東京に出ていき、演歌師になり、法政大学を予科から6年かけて卒業し、敗戦後の総選挙でタレント議員第一号になったのです。一松は天皇信奉者でありますが、戦前の軍部や指導者の在り方を見て、天皇を利用して自分の思い通りにしようとする輩を最も毛嫌いしていました。現在のタレント議員のように党のお飾りではなく、自分の正義感を貫ぬいた男として、この本は書かれています。