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松村友視は「省エネ」の司会者タモリや「猛獣使い」のタケシと比較して、戦後植民地化の日本で、日系二世のふりをして、観客やゲストをコケにしたり、バカにしたりする芸風を、時代を一歩も二歩も先走ったものだったと解説しています。タモリやタケシの時代ではある程度心の余裕ができて、いじくられてもそれを笑うことができました。しかしアメリカに敗れて、男はすべて金玉を抜かれるというような恐怖心があった頃、「レディス・アンド・ジェントルマン・アンド・おとっちゃん・おかっさん・オコンバンワ」ときたのですから、度肝を抜かれます。トニー谷の子供を誘惑した犯人でさえ、トニー谷の愚弄する態度にむかついたからやったと言っています。トニー谷に同情するより、いい気味だと言った人が多かったということです。いかにこの時代、日本人はプライドを失い、権力者の端を噛んでいる日系二世を憎んだかがわかります。これで人気は凋落しますが、テレビ番組家族歌合戦で再びブレイクします。これが7年間くらい続いて、その後はパッとしなくなり、肝臓がんも患い、石原裕次郎の死の前日に死んで、派手に書かれることもなく小規模な葬式で終わっています。人間、運不運がつきものですが、特に芸能界ではその落差が大きいもので、時代という大きな流れには個人の力では到底及ばないものもあるでしょう。
由利徹の芸名はもともと「むりとおる」(無理が通る)だったのを、あまりにも直接的だということで由利徹になったそうです。最終的にはオチャラカ芸人榎本健一の後継者との評価です。脱線トリオ、由利徹、南利明、八波むと志がテレビによく出ていました。由利徹が東北弁、南利明が名古屋弁、八波むと志はまぁ標準語みたいなものをしゃべくっていました。八波むと志は人気が最高な時に、バーの女性と一緒に乗った車が都電の停留場のコンクリートにぶつかり死んでいます。
由利徹が暴行事件を起こしたと週刊誌に書かれた時がありました。若い医者の集まりに招待されたとき、その医者仲間の一人が、最近の由利徹の芸は面白くないとほざいたからです。週刊誌では一方的に殴ったと書かれていますが、実際はどうだかわかりません。相手も若くておまけに医者というくらいですから、生意気だったのでしょう。遠藤周作も由利徹に味方してこう言っています。
「由利徹がなんで先生と言われて悪いんだ。医者の若造が、なんで苦労した由利さんに対して何が不服なんだ。俺だって殴りたい。当然だよ」
由利徹が兵隊にとられて中国戦線に行ったとき、強姦未遂を起こしています。その家の兄が帰ってきて、鎌で追い払われて逃げています。面白おかしく述べていますが、やはりこれはいけません。日本人は鬼だと言われています。最近ロシアですら、自分の振る舞いを棚に上げ、いかに日本人がアジア各国から好かれていないかを宣伝するようになりました。
一橋大学卒、パルコに入り、雑誌作り、三菱総合研究所に転職し、40歳で独立、「下流社会」などのベストセラーを書いています。大学院に入れなくて学者になる道を諦めましたが、やっていることは社会学者の同じようなものです。パルコでやっていた雑誌でトレンドというものをかぎ分ける力を養いました。ファッションの業界ですから、流行に敏感で、それを起こさせる人々の考え方感じ方、世の中の流れ、住む地域や政治まで関わってきます。服装を見ただけで、その人の心情がわかるような気になります。具体的に公務員か、銀行員の恰好。豊かだが、保守的で融通の利かない男、それからサラリーマンも会社にとらわれて、独自の考え方がもてない人となります。非正規雇用の人は社会に寄る辺がなくて、自信喪失しているような風情をしています。個人商店主は絶滅危惧種として、この世に長く存在することができないのだという諦め感が漂っています。いづれにしても今世紀終わりには日本人そのものが絶滅危惧種になるそうですから、世界がどうなるかを心配するよりは自分がどうなるかを心配したほうがいいかもしれません。
オーストリアの片田舎のアルトアウスゼーで生まれたミヒャエル・モーザーが写真家のヴィルヘルム・フーガ―の助手となり、アジア遠征隊に加わり明治日本に来ました。15歳の時です。遠征隊は帰っていったのですが、ミヒャエル・モーザーは航海の苦しみに嫌気がさし、同時に日本にいることに居心地の良さを感じたのでしょう、日本に残ることになりました。15歳の少年にしては大した勇気です。母国では小学校程度しか教育を受けなかったのですが、日本に来て、英語、日本語、フランス語、それに正式なドイツ語を身に着けました。徐々に経済的のも安定し、ウィーン万博博覧会の日本の通訳になります。アメリカでのフィラデルフィア万博でも通訳者になり、アメリカに行きます。そこで熱病にかかり、万博が終わると日本に帰らないで故郷に戻ります。後にパリ万博でも臨時の日本事務局の通訳者になります。あとは本国で写真家として生きて、1912年59歳で亡くなっています。
遠征隊で日本に来るまでいろいろな国に留まったのですが、他の国に比べ日本は清潔好きで、礼儀正しく、信頼に足る民族だと、うれしいことを言ってくれています。中国などではお金をぼったくられています。ただし日本人は好奇心旺盛で、ミヒャエル・モーザーが泊まった宿屋などでは、障子が破られ、大人や子供たちがのぞき込んでいたということです。明治1、2年の時です。それまで尊王攘夷と叫んでいて動乱の時期であったのに、何という様変わりでしょう。南蛮人など恐れているとか、敵対しているとかという状況ではありません。
昭和30年代、40年代、50年代と映画からテレビに推移していた時、花登筐はその流れにうまく乗った人です。彼が作ったテレビドラマは最高で75%とか今では考えられないような視聴率です。まあ「時代の寵児」と言われるでしょう。多く稼ぎましたが税金でそれ以上苦しんでいます。2番目の結婚で、宝塚出身の女優と結婚しましたが、豪邸と慰謝料1000万円取られて離婚しています。劇団を持っていましたが、この女房が威張るのでうまくいきません。それでも大村崑、芦屋雁之助、芦屋小雁、芦屋雁平など育てています。「細うで繁盛記」のヒロイン新珠美三千代、これも宝塚の出身ですが、ドラマの中でのけなげで清楚な女性とは違って、花登筐と初めて会った、「細うで繁盛記」出演依頼の会見の場が飛行場近くの喫茶店であったので、ぶつぶつと文句を言っています。宝塚出身の女優はみなプライドが高く、世界の中心は自分だと思っている人が多い。今もそうですがこのテレビ業界ではいろいろな人が生息しています。成り上がろうと日々すきを窺っている人も多い。そのためには足を引っ張ったり、スキャンダルを流したりすることも厭いません。大金も動くのですから欲に目のくらんだ人が織りなす醜い争いは、自然と相手を裏切るようになるのでしょう。