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今も昔も芸人が生き残れるのは至難の業のようです。当たるか当たらないかは本人の努力にもよりますが、それ以上に時の運によるものでしょう。江戸から明治に、お上も変わったのですから、芸人も変わらざるを得ません。無粋な長州や薩摩の田舎侍を相手だと、江戸の粋を集めた古典落語などしてもわかりはしないでしょう。おのずとわかりやすい所作にとってかわられます。
三遊亭円遊のステテコ踊り、一席が終わって、やおら袴をはしおりステテコを出して小唄を歌いながら踊るのです。このしぐさが何とも愛嬌があって面白かったのでしょう。
三遊亭万橘、ヘラヘラ踊り。赤い手ぬぐいに赤い扇子、ど派手な衣装で、へらへらと言いながら踊るのです。品の悪さでかえって人気が出ました。
橘家円太郎のラッパ。このラッパは乗合馬車の車掌が危険を知らすために吹いていました。円太郎はこの車掌をまねてラッパを吹いて、おばあさん危ないよと言ったようなセリフを吐いていました。
立川談志、中国の故事、「郭巨の釜堀」というのがあって、孫可愛さのために自分の食べるものも孫に与えるため衰弱していきます。それを見た息子は嫁と相談し、子供はまた作れるし、この子がいては母親が早死にすると言って子を埋めようとします。ところが穴を掘ったところがそこから黄金の茶釜が出てきて、万時めでたし親孝行となります。その物語をまねて踊りにしたのです。
落語好きの夏目漱石が小さんと円遊の違いを述べています。
「円遊の扮した太鼓持ちは、太鼓持ちになった円遊だから面白いので、小さんのやる太鼓持ちは、小さんを離れた太鼓持ちだから面白い。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物がまるで消えてしまう。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活発発地に躍動するばかりだ」
演劇シナリオライターの花登筐が道頓堀界隈の風情や芸人など書いた随筆かと思っていましたが、小説でした。日露、満州などが出てくるので、明治から昭和初期ごろの時代設定です。その頃には芝居茶屋というものがあって、今の相撲茶屋と同じことですが、「大忠」という芝居茶屋の二世代にわたる愛憎物語です。昔の芝居見物は一日がかりの物見遊山的なものであって、芝居を見ながら芝居茶屋からの差し入れの弁当を食べたり、小屋が引けたら芝居茶屋で宴会などしていました。万事のんびりとした時代でありましたが、この小説で二代目のころからは、シネマができたりして、芝居茶屋の存在そのものの意義がなくなり、商売替えをしています。またこの時代には水屋という商売もあり、飲み水を売って歩く商人もいました。この小説の登場人物の一人でもあります。この小説に出てくる男はどれもこれもどうしようもない男ばかりで、唯一広島県から来た置き薬屋がまじめで女性から信頼される男になっています。私の父もよく言っていました。兵隊で一番弱いのは大阪の連隊だと。しかしよく考えると、大阪人の方が広島人より知識が高く、天皇陛下に滅私奉公するといったものは建前だけであって、天皇のために死ぬことなどは馬鹿らしいと思っていたのでしょう。チャランポランに生きていた大阪人は自分の欲望だけには忠実だったのでしょう。それで女たちはこのような男たちによって苦労させられるといった小説です。
我々の習った考古学、食うや食わずの狩猟採集時代から、定住して農業をしてから豊かになったというのは、どうも間違いのようです。狩猟採集時代でも定住した人はいたし、農業をしなくても自然に生えた穀物をとっていた。結論的には農業時代と言われている時期にも狩猟採集民はいたし、かえって農業をやっている人は人の密集で疫病にかかることが多く、おまけの農業という仕事がきついものですから、狩猟採集民より5センチも背が低く、反対に狩猟採集民はたんぱく質に恵まれ、健康だったということです。農業従事者はたびたび死んだり、逃亡をしたりして、そのために補充をするために、狩猟採集民が捕らえた別の狩猟採集民を奴隷として買っていたのです。それから奴隷の狩猟採集民を軍隊に仕立て、別の町を攻撃してその住民を奴隷として拉致したりします。当時から農業は相当きつい仕事であり、自分から好んでやる仕事ではありません。どうも国家ができるということは、はじめから富める者と富まざるものがいたということになります。現在の資本主義もこの原初的な農業国家を基にしているのでしょう。支配者層が銀行のオーナーや政治家、中間層が徴税管、非正規雇用者が奴隷ということになります。
「危険なアメリカ映画」とは、表でも裏でも、白人がこの国を取り仕切るのだというメッセージが入っている映画です。単純なのは、ジョン・ウエイが出ている西部劇です。インディアンは害虫で、殺してもいいものというメッセージがこもっています。実際は白人は強欲な殺人者にすぎません。最近はさすがこのようなあからさまな映画は作っていませんが、言外にこの国の支配者は白人であらねばならぬというメッセージがこもった映画があるのです。あっと思われるかもしれませんが、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」もその一つです。80年代にできたこの映画は、50年代の過去に戻り、当時の白人主体の社会がいかに白人にとって居心地のいいものかを懐かしがっている映画です。しかし当時の黒人にとっては奴隷解放がなされたとしても依然として強い差別があり、黒人の少年が白人の女の子に「ヘイ」と声をかけただけでリンチに会い、殺されています。それにもう一つ「フォレストガンプ」、知恵遅れのガンブが巻き起こした感動の映画ですが、裏に込められたメッセージは、国民はガンブのように知能指数が75ぐらいでちょうどよく、言われたことを疑問も感じなく、遂行する人間であってほしいというものです。要するに国民の愚民化を称賛している映画なのです。支配者にとっては国民は都合のいい人間であってほしいということです。
この本は平成19年(2007年)出版です。この本で登場した人で、亡くなった人も多い。あっという間に時代が変わるということがわかります。いつまでもあると思うな寿命と財産、100歳まで生きる人もいますが、大概は70歳ころからバタバタ死んでいくのがわかります。若い時に天才的な成果を残した人は早死にする人が多い。これもエネルギー一定の法則から当たり前なことだとわかります。瞬時に燃焼するか、なだらかに燃焼するかによって寿命も違ってきます。平凡人は70歳から死んでいき、若い時に成果を出した人は50代、60代で体にガタがきているのでしょう。早死にする人が多い。どちらが幸せな生き方かわかりません。若い時に認められて人から褒められることは楽しいかもしれませんが、同時に患いも多く起こることでしょう。人知られずに長生きしても、単に毎日飯を食っているだけでは、あまりにも平凡さで滅入ってしまいます。人それぞれ生まれたからには生きていかないといけませんが、生き方そのものは試験問題のような正解はないようで、各自がこのような本を参考にして生き方を決めないといけないようです。