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敗戦の年に「科挙」を出版しています。昭和38年のこの中公新書版は「新しく書きおろしたもの」だそうです。もうひとつ「科挙史」というものがあって、敗戦時の「科挙」とは違ったものでしょうか?今回読んだ「科挙」と前回読んだ「科挙史」には同じエピソードも載っていますが、すべてが同じではありません。
「科挙」ができた経緯は貴族の跳ね返りを抑えるものだったそうです。全国を統一しても、地域にはボス貴族がいて、仲間や親族で固め、容易に中央政権の言うことをきかないので、四書五経からの問題を解き、詩歌と作文で優秀な成績をとると、一番、二番、三番までは中央の政治にタッチでき、その他のものは成績順に地方に回され、その地の長官になります。おいおいとこれらの長官によって地方の貴族ボスは押さえ込まれてしまいます。それではということで、貴族たちの子弟もこの科挙に挑戦し、政治の実権をにぎろうとします。宋の時代、この科挙の制度はうまく機能し、四書五経を丸暗記するためにエネルギーを使いはたし、反抗心も起こらなかったので、天子の思い通りになったということです。ところが清朝の末期になると、四書五経の勉強だけでは欧米の大砲に対処できなくなります。おまけに蛮族であった日本までも中国に進出し、無理難題を吹っかけます。とうとう清朝の崩壊と科挙制度の崩壊です。
科挙制度は最後には時代についていけなくなりましたが、いいところもあります。特に日本の戦前に対して念を押したいのですが、中国では科挙ができて1300年間文人が武人を統括していたのです。いくら武人が手柄を立てても、政治の中枢には関与させないでいました。何事も文人が武人の上に立つのです。ところが第二次世界大戦では日本は軍人が政治をし、外交は素人ですから、日ソ不可侵条約を当てし、ソ連に終戦の斡旋を頼んだりしています。スターリンはルーズベルトの承諾の下に千島列島や北海道を取ろうとしているときに、です。