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宮崎市定 論語の新しい読み方

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宮崎市定 論語の新しい読み方


    宮崎市定は典故学者と違って歴史学者ですから、歴史の流れで孔子を見ています。
BC500年頃生きていた孔子は、今で言うところの、香典の包み方をコーチしてくれるマナーの教室○○女史とも言え、また学生の就職に奔走するゼミの教授だとも言えます。孔子から300年して漢の時代になり、その漢時代の400年で、孔子の弟子たちの聞き語りが教本になり儒学が完成されます。孔子が死んで長くて700年もたっているので、文章で意味のはっきりしていないところや、漢字が間違っているのではないかというところが多々あります。それから中国では科挙が始まり、論語が試験問題に出されます。多くの受験生を落とすために、その時代その時代の試験官が論語の注釈を付けます。それらの注釈は時代を経るごとに複雑になり、こみいったものになります。典故学者はこれらの注釈の森に入っていくと、大概「馬鹿」になっていくようです。わき道だけをさ迷い、本道を見失っていると宮崎市定は言い、もう一度原点に戻り、孔子がマナー教室の○○女史であり、ゼミの教授であること思いいたせばおのずと、「学んで時に之を習う。また悦ばしからずや」も、単に復習するということではなく、弟子総出で、宮中の儀式を音楽付で再演していることになるのだと言っています。また文章で意味の通らないところは、形が似たような漢字に置き換え、意味のとおりを良くしています。「耕すや、餒その中にあり、学ぶや、禄そのうちにあり」(農業を一生懸命にすると飢饉がそのなかにある。勉強を一生懸命にすると自然に禄、俸給がその中から出てくる)これだと意味が取れません。餒が写し間違いの字であり、餧が本来の字であるということで、餧には飢えるという意味もありますが、食物という意味もあります。だから耕せば食物もできるし、学べば、金もはいってくるということですっきりします。

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