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先の「永楽帝」と並行して読んだために、二つがこんがらがってしまった。皇太子を幽閉したのは雍正帝の父・清の康熙帝であり、明の洪武帝は繊細な長男の早死にで、四男の燕王後の永楽帝が次期皇帝にふさわしいと思っていましたが、孫可愛さのために孫を皇太子にし、洪武帝が死んだ後、すんなりと孫が皇帝になり、建文帝になりました。建文帝のブレーンが政権を確固たるにするために、叔父たちの粛清を提言します。父に似て武人ではなかった建文帝は余り叔父たち争いたくはなかったのですが、ブレーンに押されて粛清を始めます。燕王後の永楽帝は父親が子供の中で一番皇帝にふさわしいと思っていたくらいですから、結局甥の建文帝は叔父の永楽帝の返り討ちに会ったのです。
明の後にできた清は満州族が作ったものです。太宗、順治帝、康熙帝にいたり、康熙帝の長男が早死にしたので、二男が皇太子になりますが、この二男のもとに多くの人が集まり、父親をないがしろする風評がたったものですから、幽閉するのです。一回は許しますが、2回目になると、この二男は精神的におかしくなって死にます。毒殺されたとも言われています。康熙帝が死ぬ時、変なうわさもあります。彼が死に際に書いた名前は14世、つまり14番目の息子だったのですが、大臣降科多は一を削り、4世として、つまり4男が指名されたとして、雍正帝になったといううわさです。康熙帝は男女含めて30人以上の子供がいたということで、雍正帝は自分の身を脅かす男子の兄弟を根絶やしにしてしまいます。
雍正帝は朝の6時ころから夜遅くまで政務を取り仕切っています。中国民族を支配する異民族の王ですから、中国の役人など余り信用していないようです。各地にスパイを送り、その地の実情を報告させていました。中国の科挙制度とは役人天国で賄賂取り放題ということを知っていますから、悪質な役人をびしびし取り締まっています。そうはいってもこの巨大な国をただひとりの皇帝で取り仕切ることはできません。清朝末期のように賄賂なくして物事が進展しないようになっています。いまでも中国人のこの悪い癖は治っていないようです。