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文久2年(1862年)赤穂藩の儒学者・村上真輔とそれに師事する国家老森主税が赤穂藩の下っ端武士13人によって暗殺されます。維新前であり、世情は尊王攘夷で揺れ、赤穂藩内部でも対立があり、殿は江戸で正妻を離別し、町人の娘を嫁にして、その嫁の言いなりという状態でした。結局13人は許され、反対に暗殺された人の親族が謹慎閉門の刑を受けます。13人は尊王攘夷の風を吹かせ、赤穂場内で奢り高ぶります。徐々に人心の思いは離れていき、赤穂に居ずらくなり、長州藩に逃れ、そこで働きます。やがて暗殺された人の罪はないことになり、家族の閉門も解かれ、元の位置にもどされなおかつ家禄も増やされました。長州藩に逃れた者たちも赤穂藩に戻し、新しい裁定が下されます。暗殺者たちは紀州高野山にある森家は墓守に命じられます。赤穂に居ては不測の事態が起こりかねないという心配からです。しかしながら明治4年(1871年)高野山に向かった6人は待ち構えていた村上真輔の息子たちやその協力者たちによって仇討ちされたのです。世情の喝采により彼らの行為もお咎めなしで幕が下りました。現在でも法律で厳格に刑が決まると言っても、世情に押される判決もあるのではないでしょうか。6人も殺したら、現在では無罪ということはないでしょうが、情状酌量で刑期が短くなるような気がします。