1991年にこの本を出版し、米寿の祝いをしてもらって、5年後の1996年に亡くなっています。94歳まで生きた長寿の人です。中学生のころから浅草に出入りし、映画館に入り浸っています。旧制高校は京都の三高に行き、それから無試験で東京大学の仏文科に入ります。そこを8年もかかって卒業します。今も昔も変わりませんが、東大とか京大に行く子弟は金持ちのボンボンということがわかります。飯島正の父親も軍人としては階級として2番目くらいの地位にいた人ですから、給料も恩給も高かったのでしょう。東大時代肺結核になり、一軒家に住まわしてもらって、なおかつお手伝いさんまでつけてもらっています。母方の叔父も銀座で銀座で広告会社を経営し、当時博報堂と肩を並べるほどの会社です。飯島正は嘱託として給料をもらっていたのでしょう。敗戦まじかにこの会社はつぶれますが、清算金として2万8千円もらっています。飯島正は一貫して映画演劇にのめりこみ、キネマ旬報に映画評論を載せています。叔父の会社に正社員として入らなかったのは、映画・演劇三昧の生活を続けたいからです。東大時代、辰野隆先生からもっと価値の定まった作家を読むようにと注意されました。当時飯島正が読んでいたのはシュールレアリスム関係や、ジュール・ロマンの冒険小説です。しかしこれらの読書がその後、映画評論にも生かされ、戦後早稲田の演劇部の教授までになり、その教え子がテレビ界に多く入っています。飯島正の一生は太平洋戦争時期と妻の介護のつらい時期を除けば、自分の好きなことをやり通した楽しい人生だったと思われます。