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1969年(昭和44年)千田町の広島大学バリケードの中で吉田拓郎は「イメージの詩」を歌っています。「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」というアルバムのなかの一曲です。そろそろ学園闘争が収束に向かっていた時期です。我々団塊の世代の一部が紅衛兵になっていた時期です。「造反有理」などと書いた立て看板が大学の門バリケードの前に鉄線でくくりつけられていたものです。機動隊の放水車でこれらのバリケードが解体され、1970年には赤軍派がよど号を乗っ取り、北朝鮮に向かいます。やがてフォークソングの世界では「イチゴ白書」がはやり、「僕は無精ひげと髪を伸ばして、学生集会へも時々出かけた、就職が決まって髪を切ってきた時、もう若くはないさと、君に言い訳したね・・・」との歌詞どおり、有名大学坊ちゃんお嬢ちゃんはそれぞれいい会社へ、そうでない大学はそれなりの就職先を見つけて働き出します。吉田拓郎も反体制のイメージを維持しながら、演歌の森進一に「襟裳岬」を進呈してレコード大賞までとっています。40年経ったいま、二人はガンに罹病しています。もはや激しく歌うこともできないでしょう。でも私にはあの若々しい森進一の姿や、ジーパン姿で授賞式にあらわれた吉田拓郎をはっきりと思い出すことが出来ます。月並みだけど年月はあっという間に過ぎてしまう。40年でも一瞬だ。玉手箱を開けた浦島太郎のように、わけもわからないうちに老人になってしまった。「僕の髪が肩までのびて、君と同じになったら、約束どおり町の教会で、結婚しようよ・・・」このような歌詞は気恥ずかしくて、もう歌えない。
関が原の合戦で負けた武将や、勝利しても平和になって職を失った武士がバンコクに多く渡って用心棒になっています。山田長政を中心として、アユタヤに日本人街が出来上がります。800人とも2000人とも言われています。隣国のビルマと戦っています。戦闘のプロですから、よく戦い、山田長政は王家の女性をあてがわれ、アユタヤ国の重要人物になります。現在もタイには日本人街ができています。傭兵ではありません。日本の円とタイのバーツの価格差を利用し、到底日本では生活できない収入でもタイではまあまあの生活が出来ます。若者はタイを引きこもりの場所と考えているようです。定年退職者は少ない年金で悠々自適の生活をしているようです。日本食のレストランもコンビニもあり、食べ物もそんなに困りません。
薩摩焼酎は沖縄の泡盛からきていて、この泡盛はもともとタイの「ラオカーオ」という蒸留酒から影響を受けています。このように遠く離れていても、日本とタイは因縁が深いと思われます。山田長政の子孫もタイ人として、同時に日本人のDNAも受け継いで、ときにはタイ人の顔を見るとまさしく親戚のあの人とそっくりだと思うことしばしばでありましょう。
ブッタも孔子もソクラテスもキリストも自らは記すことはなかったが、弟子たちがその言動を書き連ね、年代を経ることによってますます難しくなっていくようです。ブッタの教えもはじめは「口承で詩的な形」で伝えられていましたが、紀元前後に文字によってまとめられていきます。このスッタニパータは口承時代の形を色濃く残したもので、ブッタの言ったこと行ったことなどを詩の形式で叙述しています。難しい仏教語など出ていません。要は欲望を抑え、淡々と生きていくこと唱えています。「十二因縁」などの難しい用語など出ていません。
「青春を過ぎた男が
ティンパル果のように盛り上がった乳房の若い女をものにし
嫉妬から夜も眠れない
これは破滅への門である」
この文言はビートたけしに進呈したい。
「性交渉を断ち
若い女性に心惹かれず
驕りと怠惰から遠ざかり、束縛から解き放たれた人
賢者は、かれを聖者と知る」
こんなこと、できなっこないという人は仏教徒の資格はない。
「愚か者は酔いのために悪事を働き
他人に悪事を働かされる
この禍の起こる源を避けよ
愚か者から愛好され
人を狂わせる酒を避けよ」
居酒屋などやるべきではない。
「人は自分がどこからやって来て
どこへ行くのかを知らず
両端を見極めることが出来ず
いたずらに嘆き悲しむ」
どこから来てどこかに行くというフレーズはイギリスの詩人の作品の中にもある。ブッタのほうが古いのでパクリであろう。
「生まれによってバラモンではなく
生まれによってバラモンでない者なのではない
行いによってバラモンになり
行いによってバラモンでない者となるのである」
どんな地位の高い者であっても、野々村議員のように大泣きするようではたかが知れている。
国宝級の文化財に落書きするアホも現在にもいますが、何百年も経つとその落書きも学問の対象になります。何百年も経たないまでも、当時は大量生産された漫画本でも半世紀を満たないで貴重本に様変わりします。つまらないものでも年月が経てば、年月の重みが加わってくるのでしょう。この本では宮大工が柱に名前を書き込んだり、神社に参拝する人々が今と同じように神社の建物の壁や柱に落書きをしています。江戸時代が始まる前の戦国時代には男と男の愛情・美少年の男の名前を書き、恋しいとか何とか書き連ねています。日本人のセクシュアリティの広さを証明しています。この落書きは日本の地だけに留まりません。遣唐使の人々も唐の寺の絵に落書きしています。山田長政が行ったタイにも日本人の落書きが残っています。
日本人ばかりではなく総じて人間はその場所とその時間にいたという証明を残したい習性があるようです。犬の小便のようにマーキングの一種みたいなものなのでしょう。人間は死んだ後もこういう人間もいたのだと誰かに伝えたいのかもしれません。日記もその意味が多分にあります。この備忘録も二度と同じ本を読まないためと言いながら、実はこのような男もいたのだよと叫びたいのでしょう。
(ビート・たけしの書き方を真似て)、これ、7年前週間ポストで書かれたもので、月日のたつのは早いもんだってことがわかるね。ビート・たけしの弟子のそのまんま東が宮崎県知事になった年だよ。品格って言葉が頻繁に出ているから、そういった本がたくさん出版された年でもあったんだろうね。オレ、思うんだけど、これ週間ポストの記者が代作して書いているんじゃないか。原稿用紙10枚分くらい書こうと思ったら何時間もかかるよね。忙しいたけしにそんな時間の余裕があるかっていいうの。もし本当に自分で書いているにしても、週間ポストの編集者のサポートを受けていると思うよ。一般のニュースでは出てこないところの事情通なところがそこらかしこにあるんだよ。レクチャーをうけないと書けないものがあるんだな。ソムリエコンクールで一位になった田崎真也とミシュランガイドを結びつけて、フランスの陰謀だっていうのはまさしくレクチャーなしでは書けないってことよ。
ビート・たけしが首をくるっくるっとひねるのは、バイクで壁に突っ込んだ時の後遺症かと思っていたけど、テレビ収録で、トランポリンに飛び上がりながら漫才をするという企画で、誤って頭から落ちたことによってだって。テレビ番組でケガをした第一号だということだけど、当時はテレビに出るだけでありがたいと思わないといけない駆け出しの時代だから文句など言えない状況だったということ。40年前はテレビ様様だから、文句などいうようなものならすぐほされてしまうだろうよ。