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明治になって日本語を英語の文法に当てはめ、主語、動詞、目的語、補語となどといった解釈は間違いの元であったということになります。
日本語は盆栽型で、英語はクリスマスツリー型だといっています。
Geoge is baking bread at home
ジョージは家でパンを焼いている
日本語では「ジョージ」は別になくてもいいのです。前後の文脈でわかるからです。「焼いている」という述語が盆栽皿で、「ジョージ」も「パン」も「家で」もすべて補語でしかありません。述語だけで日本文は完結できるのです。それは文化の違いです。端的な例がこの文章で見られます。
I see Mt.Fiji
富士山が見える
英語圏、インド・ヨーロッパ語族の人々は自己主張が強いということです。日本語では自然の中で個人は埋没しています。それで日本人は自分の肉体も自然と同じものとしています。「目」は「芽」、「鼻」は「花」、「歯」は「葉」といったように。
ヨーロッパという狭くて寒い地域に住んでいると食料も少ないので争いになります。自然と「俺のものだ」ということが口癖になるのでしょう。だから主語とか人称代名詞が最初にきます。安土桃山時代、ヨーロッパ人を見て南蛮人と名づけたのは理にかなっていることになります。「俺が俺が」と言う連中を最も日本人は嫌います。慎ましさのない野蛮人だとみなします。だから英語を上達しようと思ったら、遠慮深さをやめて、大いに自己主張をすべきなのです。野蛮人のように吠えることが必要です。でも日本人は自分を犬程度まで貶めることは恥ずかしくてできません。だからいつまでたっても英語が上達しないのがわかるような気がします。