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イギリスの哲学者ラッセルは平和主義者と思っていましたが、実際は強烈な人種主義者だったということがこの本でわかりました。要するにこの地球が繁殖力の強い有色人種に資源を食いあらされて、人類全体が消滅するということを恐れ、彼ら繁殖力の墜ちた優秀な白人人種が生き延びるためには、自分たち以外の人種には、無慈悲な手段をとらないといけないだろうと言っているのです。植民地時代は彼らの天国でした。汚いことや辛いことはすべて奴隷がやってくれていました。第二次世界大戦でもわかるように欧米人は収容所を拵えホロコーストをし、原子爆弾を作り投下した人々です。現在ではあからさまにこのようなことは言えないが、ビルゲイツの財団など、避妊薬を作り、コロナもコロナワクチンも人類削減計画の一環ではないかといわれています。二酸化炭素の削減も化石燃料の使用で地球がホットになるというのが本当かどうかはっきりとはわからないのです。これも裏があると増田悦佐は言っています。日本が高度成長期にローマクラブの石油枯渇の警告が発せられました。そして今や二酸化炭素削減。要は欧米は日本のガソリンエンジン技術にかなうことができないものだから、簡単な電気エンジンに代えたのではないということです。
私たちも高校生になると日本軍部の頑迷さに腹立たしく思ってきました。巨艦主義を貫き、無駄死にさした戦艦大和を情けなく、哀れに思ったものです。日本が最初にイギリスの巨艦2隻を飛行機で撃破したのに、その教訓を生かせずに、飛行機なら数千機作れるところを、巨艦を2隻作ってしまって、それら巨艦は何ら活躍する所がなかった。なんて戦前の連中は状況が読めなかったのだろうと思いましたが、この本を読んでみると、海の見えない長野の村長の日記があって、海を隔てたアメリカとの戦いであっては、飛行機の時代であって、大いに飛行機を生産すべきと書いているのです。この人だけではありません。多くの人々が、街の小僧だってそう思っていたのです。もちろん飛行機も作りましたが、結局はアメリカより生産量が足らなかったということです。つまり国力がなかったのです。現在もドイツに抜かれ世界で4位になりましたが、じきにインドに抜かれ、インドネシアに抜かれるでしょう。これからは日本は介護先進国として、ボケ老人を介護するロボットの開発に専心しないといけないでしょう。
まず日本では仏教から医療が発展し、それまでは民間医療の毛の生えたものだったのでしょう。民間医療と言っても薬草が少々あっただけかもしれません。仏教でも主に念仏を唱えるだけでこれと言った医療はなかったでしょう。ただ釈迦の教えには精神医学のようなものであり、欲望を抑え諦めることをメインにしていますから、食事もそれにあわせて食べ過ぎないよう、ほどほどにすることになっているので、人々が平穏に暮らす健康法になっています。それから中国医療が怒涛のように入ってくるのですが、日本人はすべてこれを受け入れたのではありません。陰陽五行説など無理にこじつけた説が多く、それを医療に用いるのは害があるだけで益はないと切り捨てる日本の医学者もいて、反対にこれを中国に知らしめている人もいます。
「世俗化論」とは、たぶん、近代になって欧米の諸国ではキリスト教を信じる人が少なくなり、教会の儀式も神秘性がなくなり、日曜日になってもお参りに行かない状況のことを言っているのでしょう。多くの社会学者が「世俗化論」のことを定義づけようとしているのですが、数学の定義づけほどうまくいっていないようです。言葉の定義づけほど難しいものはありません。言葉は曖昧なものだからです。それでも欧米の学者は何とかしようと頑張るのです。察しのいい日本人はこのようなものだろうと、適当なところで切り上げます。私も察しがいいのでこの本を適当に読み流します。でも現在世界の覇権を握っているのは、この融通の利かない欧米人たちです。彼らの時代背景を考えてみると、基底部分の古代ギリシャ文明と古代ローマ帝国とそれに付随したキリスト教が存在します。シーザーはこれら欧米人の先祖たちーノルマン人やゲルマン人など体がでかく戦闘好きだが頭がトロイと言っていました。これら野蛮人たちがキリスト教に触れると、トロイ頭で考え始めます。とうとう「神学」などの論理の煮詰まった理論体系を作り始めます。要領が悪いながら論理のブロックを積み上げていったのです。これがルネッサンスを経て産業革命に行きつき、ヨーロッパ北方人は世界を牛耳るようになります。察しのいいだけでは論理のブロックは作れません。この「世俗化論」の欧米学者の拘泥も、論理のブロックを積み重ねていると、思わぬところから道が開けるかもしれません。察しのいいだけでは真珠湾攻撃を考えるしかできません。一時いい目を見ることがありますが、長い時間では論理の圧力に手も足も出なくなりました。
文久2年(1862年)赤穂藩の儒学者・村上真輔とそれに師事する国家老森主税が赤穂藩の下っ端武士13人によって暗殺されます。維新前であり、世情は尊王攘夷で揺れ、赤穂藩内部でも対立があり、殿は江戸で正妻を離別し、町人の娘を嫁にして、その嫁の言いなりという状態でした。結局13人は許され、反対に暗殺された人の親族が謹慎閉門の刑を受けます。13人は尊王攘夷の風を吹かせ、赤穂場内で奢り高ぶります。徐々に人心の思いは離れていき、赤穂に居ずらくなり、長州藩に逃れ、そこで働きます。やがて暗殺された人の罪はないことになり、家族の閉門も解かれ、元の位置にもどされなおかつ家禄も増やされました。長州藩に逃れた者たちも赤穂藩に戻し、新しい裁定が下されます。暗殺者たちは紀州高野山にある森家は墓守に命じられます。赤穂に居ては不測の事態が起こりかねないという心配からです。しかしながら明治4年(1871年)高野山に向かった6人は待ち構えていた村上真輔の息子たちやその協力者たちによって仇討ちされたのです。世情の喝采により彼らの行為もお咎めなしで幕が下りました。現在でも法律で厳格に刑が決まると言っても、世情に押される判決もあるのではないでしょうか。6人も殺したら、現在では無罪ということはないでしょうが、情状酌量で刑期が短くなるような気がします。