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カルピニ ルブルク 中央アジア・蒙古旅行記

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カルピニ ルブルク 中央アジア・蒙古旅行記


    カルピニは1245~47、ルブルクは1253~1255、フランシスコ修道士としてキリスト教布教のためにモンゴルの地を訪れています。野蛮、凶暴といわれたモンゴル人、タルタル人、韃靼人の地によくも数人で出向いたものです。殺されることは覚悟の上なのでしょう。

モンゴルでの美人は鼻が低ければ低いほど美人だそうです。それに良く肥えているほど男から好かれると書いています。現在の基準とは大いに違うものです。

モンゴル社会には占者がいて、誰かが病気になると、誰かの祟りじゃとなり、日本の精神構造とよく似ています。シャーマンである占者は太鼓を叩きつつ、踊り、錯乱状態なり、発する言葉が占言になるのです。

モンゴルにはイスラム教の人たちも来ています。モンゴルの王の前で、ルブルクはイスラム教徒と宗教上の議論を戦っています。現在もそうですが、その当時もずっとイスラム教とキリスト教は仲が悪かったということがわかります。

ルブルクが国に帰るとき、モンゴル王はフランク王国のルイ王に手紙を託します。その内容は、フビライ・ハーンが日本に送った国書と同じようなものです。

「汝、これを聞きて信じたるとき、余らに服せんことを欲せれば、汝が使節どもをわれに送るべし。これによりて、汝が遺志の和戦いずれになるかを知るの証拠とせん。・・・(モンゴルより遠くにあって、山があり海があってモンゴルが攻め来られないと思っていると)・・・余らに兵を発することあらんか」

親書ではなく、恐喝書であります。

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