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バーヴェル・ミハイロヴィッチ・ジェロトケヴィッチは商人、公爵ダデシュカリアニは役人、ウェーベリ中佐、カルネイェフ大佐、ミハイロフ中尉、アリフタン中佐は軍人で、前者二人は1885年、ウェーベリ中佐は1889年、後者三人は1895年、乙未事変の年に来ています。乙未事変とは朝鮮の王妃・閔姫を日本の浪人たちが殺害した年です。
1876年日本は朝鮮と通商条約を結びました。それから日本の商人や軍隊がゾクゾクと進出します。それにしたがって朝鮮人の日本排斥の気運が高まります。当時の朝鮮の雰囲気をどの旅行記も伝えています。朝鮮人の中にはロシアの力を借りて日本人を朝鮮から追い出して欲しいと懇願するものもいたと書いています。おまけに朝鮮の王はロシア領事館に逃げ込んでしまいます。
軍人たちの旅行記は、各港の深度や各地の物産、それに道路の状況や地形などを記録しています。日本との戦争を考慮しているのでしょう。年間通して凍らない港は特に重要だったと思われます。
東学党の運動も激しくなり、それらの暴徒に囲まれて危ない目にあったということも記されています。
朝鮮王朝に軍人にサーベルを見させてくれと頼んだら、抜くのに時間がかかり、おまけにその剣はさび付いていたということです。給料も兵器の装備もカネがかけられない状況だったのでしょう。その分王族や両班たちが贅沢しすぎたということです。軍人以上に悲惨なのは庶民で、一切労働しない両班たちにむしりとられて、労働意欲すらなくなっています。おまけに占い師やら祈祷師やらがやたらに多く、それらからも無駄なゼニをむしりとられているということも記しています。