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チェンバレンは英国人ですが、彼の父は英国海軍の提督で、朝鮮や琉球まで来ています。チェンバレン自身は体が弱く、2歳のとき母親が死に、祖母の住むフランスにいったり、療養のためあちらこちら転地しています。とうとう極東の果て日本まで来たということになりました。23歳ころです。早速、明治政府のお雇い外人になり、海軍兵学校で教えます。チェンバレンは語学の天才であり、7カ国か8カ国の言語を話すことができたそうです。日本語も明治維新の熱の覚めやらぬときに、刀を差した浜松藩士・荒木某という古武士に日本の古典から学んでいきます。あっという間に日本語をマスターし、アイヌ語や琉球語まで研究を延ばしています。23歳から61歳まで日本にいて、その間病気の治療で数回ヨーロッパに帰りましたが、40年間も日本にいたことになります。その間の日本の社会の移り変わりがこの事物誌きめ細かく書かれています。大航海時代からヨーロッパ勢が世界を席巻したということがこのチェンバレンを見るとわかるような気がします。飽くなき好奇心と探究心です。たとえチェンバレンのように病弱な身であっても、ちゃんとメモを取り、自分なりの見解を披露していることです。ダーウィンのそうですが、見たものをちゃんと記録して、残していることです。一回の航海士であっても、海図を作成したり、航海日誌を書き、それが後々便宜な元となっています。おまけに宣教師のようにどのような迫害にあってもそこに踏みとどまろうとする強い意志が見受けられます。チェンバレンも40年間日本に居続け、たとえ病弱な身であっても、またどんなに環境が違っても、元からいるような堂々とした態度を取れることです。これも当時イギリスが世界の覇者ということもあろうかと思いますが、異国人のなかにあって恐れることなく、一人でそこにいるということはたいしたものです。中国人や韓国人や日本人はすぐ徒労を組んで、中国街や韓国街やリトル東京を作るでしょう。もともと東洋人は気が小さく臆病なのでしょう。