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小竹文夫の経歴は上海に在った東亜同文書院で中国語を学び、卒業と同時に同書院の先生を3年間勤め、それから京都帝大の学生になり、史学科を卒業し、また同書院の先生20年間し、合計30年間上海にいて、終戦後日本に帰ってきたということです。東亜同文書院とは私立の学校で、はじめは日本人だけを対象にして1901年(明治34年)にでき、それから中国人の学生も入学できるようになり、1939(昭和14年)には大学になっています。小竹文夫は寝言も中国語で言ったということで、中国語を完璧にはなすことができたのでしょう。中国人の服装をしてあちらこちら旅行をしたと書いています。ある面間諜のような仕事もしていたのかもしれません。
中国ではよく言われるように兵になるということは最低限の人間になるということで、好まれていません。科挙でもわかるように、最高の人間は詩を楽しんだり作ったりする文人の人です。それらができない人でも、4000年の歴史を持つこの民族には、風雅というかユーモアというか、口争いははでにするが、めったに手を上げたりしない典雅さを、どんな汚い格好をした人も身につけているようです。雑踏に著しい上海でめったに人と人とがぶつからないということに驚いています。背の高い中国人が背をすぼめて歩いているのに対して、背の低い日本人がその時代の影響から大意張りで闊歩するとは大違いです。
中国人の理想は福禄寿にまとめられます。「多子、財貨、長寿」のことで、孔子の教えも来世のことなど一切言及がなく、非常に現実主義者であります。中国人の欠点は付和雷同性にあると言っています。そうはいってもこれは日本人にもあてはまるでしょう。稲作文化圏の性格かもしれません。