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1819年(文政2年)薩摩藩士3人と、その従士、船員合わせて28人が永良部島から鹿児島に帰る途中、しけにあって、朝鮮半島の庇仁県馬梁に流れつき、それから日本に送り返されたことがありました。この間の事情を克明に記録した安田喜藤太の日記があり、これを基にしてこの本は書かれています。安田喜藤太は絵心もあり、何枚かの絵を残しています。藩士の一人・川上彦十郎は帰還する前、釜山で亡くなっています。雨水を飲んで大方が下痢をしたというところから、川上彦十郎はとくにひどかったのでしょう。回復することなく死に、釜山に埋葬されました。一番くらいの高い武士・日高与一左衛門も病気がちで、折衝に当たったのは安田喜藤太です。朝鮮語はできないので、筆談、漢文で挑戦官吏と交渉しています。おおむね交渉は友好的に行なわれましたが、朝鮮側は豊臣秀吉の朝鮮出兵にこりているのでしょう、病気の川上彦十郎を上陸さしてそこで看病して欲しいと願っても許されませんでした。浸水した船の中ですから病状が回復するわけがありません。朝鮮もいろいろな薬効を与えてくれるのですが、帰還前に死んでしまいます。
朝鮮の下っ端役人が日高与一左衛門の槍の紙のカバーを破った時、従者の一人が薪でその役人を殴りました。カバーを破った朝鮮役人が悪いということで日本の従者にはお咎めなしです。朝鮮人が船にあったものを盗んで捕まりましたが、その者は棒で尻や背中を叩かれたと書いています。
安田喜藤太は漢詩もできるので、朝鮮役人との漢詩の交換もしています。
現在の韓国の状況を見ると、日本の女子の旅行者が韓国男に暴行を受けたように、薩摩藩士も現在では、ひどい目に会うかもしれません。韓国がやっているように、その日本の女子も韓国に倣って韓国のその男に対して「謝罪」を要求すべきでしょう。それも一回ぽっきりではなく、何度も何度も「一千年」も、それに賠償金と慰謝料を要求し、それらがかなえられたとしても、何かに付けて思い出し、蒸し返し、「謝罪」と「金銭」を要求し続けないとバランスが取れないと思われます。まあこれは冗談ですが、そういう気持ちになるような現在の日韓の状況です。