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宗希璟の「老松堂日本行録」を中心にして、朝鮮人の日本の見方を解説しています。宗希璟は「1420年(応永27年)閏正月15日、都漢城を出発」して、日本に行き、その年の10月25日に漢城に帰り、世宗に「粛拝」しています。今のソウルから京都まで11ヶ月かけて往復したのです。
宗希璟が日本に来る前に、朝鮮は倭寇の巣窟である対馬を攻撃しています。倭寇は朝鮮や中国の沿岸部まで襲って、略奪したり、人をさらって奴隷にしたりしていました。これに腹を立てた世宗は当時朝鮮にいた倭人を隔離し、「兵船227艘、総計1万7258人」で対馬を撃ったのです。全面勝利にいたりませんが、「1939戸を焼き、114の首級をあげ、21人を捕虜にし、中国人131人」を解放したと記録が残っています。対馬という僻地の事件が京都では明と朝鮮の連合軍が対馬を襲ったという噂になりました。このことが当時の日本の権力者足利義持に疑念を抱かせ、会おうとしませんでしたが、宗希璟が倭寇の悪行を懲らしめただけで、日本全体に対するものではないと説明し、「礼を回らして信を通じるためにやってきたのです」と言って、やっと義持の疑念が解きました。
「老松堂日本行録」には当時の日本の様子が記されています。将軍が家来の家に行くと、その家来の妻が将軍と一緒に風呂に入り、背中を流したりするということを書いています。おのずとねんごろになり、お手つきになって家来から妻を取り上げることになります。朝鮮では両班の妻がそういうことになったら、妻は自害するでしょう。
各地に市が盛んで底には必ず遊女がたむろしているということも書いています。おまけに貨幣が流通しており、旅行するにしても米とかの食料を持参することもなく、旅先で金を払えば飯も食えるし、泊まることもできると知って、目を見張っています。
また仏教でも、尼と僧侶が同じ敷地に居を構え、夜になると混合し、子を孕むと実家に帰り子を生み、一段落するとまた尼になり、また元のような生活をするのだと聞いてビックリしています。
当時でも日本は朝鮮に比べて暖かかったのでしょう。蚊も朝鮮と比べて二倍も大きいといって、蚊帳を釣ってあっても一匹でも蚊がいると眠れなかったと書いています。
飢饉もあり路上には飢えた人間や病人がたくさんいたとも記しています。私もソウルに旅行したのですが、東大門の近くの橋の上に乞食が多くいたので驚いてしまいました。旅行者は地元ものが普段あまり気にかけないようなものばかり、注意深く見るのでしょう。当たり前のことに慣れてしまって、あまり考えないようになっているのでしょう。部外者から指摘されてあっと気づくことが多いように思われます。