[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
私の店にも「南條勇希」さんが、ひいきの女性と来られ、勇希さんの写真が載った絵葉書をもらいました。その絵葉書は今も店に飾っています。「南條」という名は大衆演劇では名門の筋にあたるのでしょう。
鵜飼正樹はフィールドワークのため、一年ちょっと、市川ひと丸劇団に入り、「南條まさき」という芸名をもらって、座員として過ごします。京大の修士課程にいて、休学し、ここでの経験を論文にしたためようとしたのでしょう。京大大学院の高学歴の鵜飼は中卒や高校中退にいたぶられたり殴られたりしながらも、徐々に仲間として認めてもらえるようになります。頭もパンチパーマに変え、街を歩く若い女性に「オメコしようか」といえるようになります。
鵜飼正樹と南條まさきの違いは、「学校的世界にとらわれて身動きのとれない」のが鵜飼正樹で、「優等生コースに乗るうちに、いつの間にか身についた学校的考え方、ことば、身振り。ときには慎重に、ときには暴力的に、それらは一枚一枚はがされていった。そうして残ったものが」南條まさきであるということになります。しかしながら京大大学院という「安全地帯である場所をキープしたうえでのことで」一年ちょっとでは南條まさきになりきることはできません。そうかといってもとの鵜飼正樹にも戻ることはできないのです。社会学も物理学の影響を受けて、純正の観察者は世の中にはいないということになります。観察するものがいれば、観察されるものは変化し、それと同時に観察するものは変わっていくということになります。