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「よき友は、手習いや学文の友である。悪しき友として除くべきは、碁・将棋・笛・尺八の友である。これを知らないからと言って恥になることではない。習っても悪いことではない。ただ、いたずらに光陰を送るということだけである。人の善悪はみなともによるということである」
私もこの歳になるまで将棋に明け暮れて、光陰を無駄に過ごしてしまいました。この何万時間を英語の勉強でも費やすと、今頃はもっとましな生活をしているかもしれません。今では体も効かず、ほかにやることもないので相変わらずインターネットで将棋をしています。きっと高段者になっているだろうと思われるだろうが、これも相変わらず低段者で今日まで来ています。インターネット将棋24の主催者から「お情け」と長年このサイトを使ってくれたという「感謝」から「大龍」という尊称をいただきました。
インドが発祥地で、それが西洋に渡ればチェス、中国、日本に渡って将棋になりました。根本的に中国将棋やチェストと日本の将棋の違っている点は、日本の将棋は取った駒を同じ価値で使えるということです。それは戦争の形からわかります。西洋や中国は捕獲した将兵は殺すか奴隷にします。日本では有能な将兵は雇い入れるという習慣があったようです。菅原道真の怨念を恐れるぐらいですから、敵と言っても無碍に殺すようなことはできなく、ある程度甘いところがあったような気がします。
1000年以上にわたるローマの歴史と言っても結局は指導者の歴史になります。指導者の良し悪しで時代の特徴が際立ちます。歴史が面白くなるのはとてつもない指導者が出た時です。それも悪い指導者です。当時生きていた人民には耐え難い厄災ですが、後世の人間には歴史を学んでみようという気になります。古代ローマ史にはこれら人物の不足がないことはありません。往々にして賢帝の親父にアホ息子が生まれやすい。裕福に育つと、何か一本芯が抜けるのでしょう。そうかといってあまりにも貧しく育った人間も何か癇みたいなものがあって、虎の尾を踏めばというごとく、彼の癇に障ると逆上してしまう人間もいます。木村凌二もこう言っています。
「カエサルヤアウグストゥスは、そのような善悪の紛らわしさを自覚していたのではないだろうか。というよりも、善悪を超えたところに、彼らの精神は住んでいたかもしれない。少なくとも絶大な権力者に上がり詰めていくには、善悪の超人にならなければならないだろう」
この本の中で片手を切り落とされたコンゴの黒人たちが多く写っている。コンゴはベルギーの国王の私有地であり、ゴムの菜園でノルマに達しなかった人の手を切っていたのだというのです。全くひどいものです。戦後天皇がベルギーを親善訪問した時、ベルギーの元軍人たちが騒いだことがありました。アジアの植民地から追い出されたことに根を持っているのでしょう。日本が負けて再びベルギーは植民地に帰ってきたが、覚醒した植民地の人々はかつての順応な人々ではなくなっています。結局植民地を手放さざるを得なくなっています。こういったことで、ベルギー人の、日本人B、C級戦犯の追及はアフリカの手を切られた黒人と同じように激しいものでした。大航海時期からごく最近まで欧米各国が行くところ、そこの現地民はジェノサイドと言われるほど死亡しています。コンゴなどではベルギーの私有地であった23年ほどで1000万人がなくなっているのです。アメリカなどはインディアンが死にすぎて、アフリカから黒人の奴隷を連れてきているほどです。今ウクライナとロシア、イスラエルとハマスなど戦争を引き起こしていますが、そもそもの原因はこれら先進諸国の資源の飽くなき追及です。欲張りには永遠に平和など訪れません。優秀な人種や劣等な人種がいるというのではありません。ただつらの張った欲望の強い人たちがいるということです。
毎日新聞の夕刊に2006年頃から書き始め、2011年に出版したものです。赤瀬川原平のお伴としてデーターマンの記者がついて、散歩する町のデーターを上げていたのでしょう。若い頃は胃を患い、これを書いているときはめまいに襲われていると言っていました。これを書き終わって2年後に77歳で亡くなっています。私も今頭がふらふらしているので、赤瀬川原平の歳のころに死ぬかもしれません。
ペギー葉山は青山学院大学の出身者で、彼女のヒット曲の「学生時代」が校歌代わりに合唱されていたということです。
国士舘大学は吉田松陰を理想として掲げた大学です。右翼一点張りの大学かと思いましたが、アメリカへの飛翔を画策した松陰を理想としているのですから、きっとこの大学も海外飛翔したいと思う学生が多いのでしょう。
駒澤大学は禅宗が基になっている。
成城大学は柳田国男との関係が深い。どのようなものでもゆわれはあるのです。
篠原孝義さんの生まれた実家は、今でいうところの、中区住吉町、昔では水主町(かこまち)、明治橋と住吉橋のちょうど中間どころにあって、当時では大きな煙草屋をやっていました。戦後原水爆運動にかかわりあっています。昭和19年飛行機の部品を作っている会社に入社し、それから原爆受け、その後どのような仕事をしたのかわかりません。原水爆運動をしたと書いていますが、どのような仕事をしたのか書かれていません。彼の父は清岸寺の檀家総代をしており、ゆくゆくは息子を坊主にしたいと思っていましたが、原爆や葬式佛教に嫌気がさして、篠原孝義さんは佛教嫌いになります。スチュワーデス殺人事件のことも書いていますから、カソリックの教義も信用ならんという思いの文章もあります。戦争の反省から自由を束縛するような教義やドグマには腹に据えかねるといったところでしょう。