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古代ローマ帝国の2世紀から3世紀にかけてアルテミドロスという人が「夢判断の書」というものを書いています。彼は同時に夢判断師で、それを生業にし、息子も夢判断師になっています。お客は商人、奴隷、女性、漁師などごく一般的な庶民です。地位の高い人はあまり来なかったようです。当時の夢判断師は故事やホメロスの物語、演劇などから夢採取し、それを援用して解釈していたようです。だから蛇など出てくると、たちまち凶であると解釈されました。アルテミドロスが普通の夢判断師と違うところは、凶と言われる蛇が出たところで、その夢を見た人物の地位や社会環境によって吉にもなるのだと解釈したところです。フロイトの考え方に似ているようです。現代では夢判断の根拠は無意味なものですが、彼が商売でいろいろな庶民と話したことで、古代ローマ帝国の社会生活の細部が浮き出てくることがこの本を読む重要なメリットだと言っています。
トーネマンがアルテミドロスのホメロスの解釈を間違っていると指摘しています。アルテミドロスの時代から1000年前のホメロスの作品ですから、ギリシャ語と言ってもずいぶん変化しているでしょう。今現在日本で源氏物語をスラスラ読める人はないでしょう。
1951年テレビができて、私に家にテレビがやってきたのは、美智子様のご成婚の時だ。はや60何年か経ち、今や死を目の前にし、いまだに覚醒したという気分にはなれないのです。もやもやしながら死が来るのを待っている状態です。
テレビができはじめ、番組の30%は「教養」「教育」の番組を作るようにとの放送法があったようです。テレビ創成期にはコンテンツがなかったもので、「教養」として外国の映画やドラマをながしていました。「ララミー牧場」やら「ルーシーショウ」です。それからクイズ番組、「私の秘密」や「ジェスチャー」だってクイズ番組と称されていました。その後「タイムショック」とか純然たるクイズ番組が大はやりになるのです。それからニュースを娯楽にしたワイドショウが始まり、「木島モーニングショウ」や「小金治のワイドショウ」大人気となります。「イレブンpm」も最初はニュースの解説をやっていたということです。テレビの大まかな流れはこの通りで、これから先どうなることやら?NHKは最近視聴料を値下げしたと言っていますが、収入のないものにはタダにすべきです。アナウンサーが若手のアナウンサーを紹介していましたが、彼は東大物理学科を出ているそうです。これではノーベル賞もだんだん取れなくなっていくでしょう。せっかくそこに入ったのですから研究職になってもらいたいものです。アジア大会で北朝鮮のサッカー選手のラフプレイが非難されていますが、国家予算を使ってここに出してもらっているということから負けたくないという必死の気持ちがあるようです。そこまでしろとはいえませんが、国家予算の有効な使い道であって欲しいものです。
1960年代アイヒマン心理実験を、権威者を科学者からテレビに代えてやったものです。ユダヤ人を何百万人も計画殺戮したアイヒマンは血も涙もない異常性格者なのかという疑問から行った実験です。記憶に関する実験で、間違えると電気ショックを与えて、記憶が高まるかどうかを調べると言って、電気ショックを与える試験者を集めました。答えるのは俳優で、電気ショックのボルトが上がるごとに悲鳴が大きくなります。これは嘘で、試験者はそれを知りません。結果はボルトの最高値まで電気ショックのレバーを押したのは6割にもなったということです。我々の6割はヒットラーに命令されれば人を殺すことだってできるということを示しています。テレビではクイズ番組と称して同じことをしてのですが、8割もの人間が最後のボルト数までのレバーを押したということになりました。我々は権威とか権力に弱いものだとわかります。ジャニーズの問題も根は同じことです。
祖父の時代は醤油業で大金持ちで広大な敷地があったが、父の時代になると、政治に関わり、酒を飲むだけで、家業をなおざりにし、資産もなくなり、高等小学校生の壮一と丁稚だけで醤油の販売など商売していたということです。その前には姉の嫁ぎ先の大阪の質屋に丁稚奉公として入っていた時もありました。雑誌などに投稿し、たびたび賞を受けていました。中学受験があるというので受けてみたところ合格し、家業と勉強を両立させるため、隔日授業を提案し、その特例を認められたこともありました。その学校は結果的には放校されたのですが、別の中学校の卒業試験を受け、合格、京都の三高へ行き、その後東大に入ります。何というスーパー学生であったことか。今の時代では考えられないことです。中学校時代には賀川豊彦を知り、中学放校も「アカ」なる言動が災いしたのでしょう。第二次世界大戦では「宣伝販」に組み込まれ、爆撃を受け、海に重油まみれに漂流したこともあります。何と言っても大宅壮一が輝いたのは戦後で、ジャーナリスティックな世界でその時代にぴったりとした鋭い考えを発していた時です。体の弱い息子とことも書いています。親負けしそうなのに気付いたのでしょう。名前も苗字も変えてもいいと言っています。でも息子は親よりも早く死にました。その分姉の方が長生きし、今も生きています。