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広末登は犯罪学者だそうで、この本は実在の「姐さん」の聞き語りです。在日3世で、父親もヤクザをしています。中学生ころからぐれて、高校中退、繁華街で、焼き鳥屋、キャバクラにつとめ、違法薬物に染まります。その代金を稼ぐために、自動車泥棒になります。女性で自動車泥棒は珍しい。合鍵製作を唯一真面目に勉強したと言っています。違法薬物では執行猶予になりましたが、自動車泥棒で刑務所に収監されます。出所してもまた違法薬物等で捕まり、また出ても、もう一回捕まり、三度刑務所に入っています。出所して組長と結婚、この組長は一旦ヤクザをやめ、リホームの会社を立ち上げていましたが、いろいろな事情でまたヤクザに舞い戻り、対立する組ともめて、刑務所に収監されます。組長との子供を授かった「姐さん」が若い衆の面倒を見なければならないという自覚を持ったというところでこの本は終わっています。
「姐さん」はその後居酒屋を始めたそうです。ヤクザの不安定な収入を当てにしないで、自分の手で安定な収入をえようとしたのでしょうが、このコロナ下、安定した収入ができているどうかは不明です。生業では頑張ってくださいとしか言いようがありません。しかし反社会的なヤクザの営業ではがんばってくださいとは言えません。
小市民的生活者から見ると、ヤクザは好き勝手をし、面白く生活していると思いますが、学校の落ちこぼれがまともに就職できなくて、ヤクザ方面に行くしかないというのが問題です。何事も食えなくなるとベトナム研修生のように、豚や鶏を盗むようになるのです。
日本古代の歴史を知るためには、中国、朝鮮等のアジア史を知らないといけないと主張しています。日本の天皇が「天皇」という名になったのは中国の位階制度よるものです。韓国時代劇ドラマで中国の使者と丁々発止と渡り合っていますが、それは大嘘で、中国の使者が来ますと、朝鮮の国王は「迎恩門」で出向かい、地べたに頭をくっつけて恭順の姿勢をとっていました。つまり朝鮮の国王と言っても中国から見れば、柵封国の一つであり、一応国王という名の称号を賜っていますが、実際は中国の位階制度では上位ではなく、中国の使者の長官の位よりは下なのです。だから朝鮮の国王ははいつくばって使者に粗相の無いようにしているのです。そうしないと陸続きですからすぐに軍隊を差し向けます。ところが日本は海で隔てられていますから、まさか大量の軍隊が海を渡ってこないだろうと安心感で、何とか中国と対等な関係をもとうとしたのです。もちろん日本も中国の位階制度を知っています。中国の「皇帝」は中国しか許されていません。大君、大王、天王と名の変遷をしていましたが、「皇帝」と吊り合いのとれる「天皇」に行きつきました。当時小国で後進国の日本が精一杯虚勢を張っていたのです。中国では礼儀を知らないこの蛮族かと思っていたことでしょう。ところが明治になり、日清戦争で清を破ると、日本人の悪い癖が出ます。長年中国に文化的に劣ると思い込まされた反動から、中国やアジア全体を馬鹿にし始めます。いくら欧米の植民地を解放してやったとうそぶいても、だれも感謝しないでしょう。人間誰しもプライドがあるのです。あのユーラシア大陸の果ての小国大和朝廷もプライドがあったのです。プライドを壊されては根深い憎しみが残るだけです。
ギリシャ神話でプシュケ、エロス、アフロディテの三人が登場する物語から女の生き方を問うています。三人姉妹の一番下の妹プシュケは美人の評判が高く、美の女神アフロディテの嫉妬をかい、アフロディテはエロスに、この世で最も醜い動物と結婚させるようにと命じます。ところがエロスがプシュケの寝顔を見て自分の矢を自分の指に当てます。エロスはプシュケを恋することになります。エロスはプシュケに対して決して見てはいけないし、詮索してもいけないと命じます。ところがプシュケの姉たちがやって来て、相手が誰かを調べるためにランプを置くことを勧めます。エロスがやってきた晩、エロスが寝たところを見計らってランプをともします。そこには神々しいエロスがいて、プシュケははじめて愛情を覚えます。エロスは自分の姿を見られてことでプシュケから去り天上界にいる母のアフロディテのもとに逃げ込みます。アフロディテはプシュケに過酷な仕事を押し付け、そのたびごとに誰かに助けられ克服していきます。最後にはエロスがギリシャの最高神ゼウスに頼みプシュケを助けてもらいます。プシュケは「喜び」という子供を出産してハッピーエンドになるという神話です。
まずプシュケの結婚ですが、アフロディテの差し金で為された神託により、山頂の岩につながれ醜い動物にさらわれるということになりました。つまり死を賜るということです。別の言葉で言えば、自由な娘から拘束の多い女になるということです。
エロスを見てはいけないということは、古来の男の作戦かもしれません。女を無知のまま置いておけば、家庭の波乱はまぬがれると思っていたのでしょう。ソクラテスの妻のように旦那にがみがみ言うようになっては、家庭に腰を下ろすことができず、仕方なく街中に出て、ああでもないこうでもないと議論するほかなかったのでしょう。
アフロディテとプシュケの関係は姑と嫁の関係です。姑が生きている間嫁はいびり続けられるということを覚悟しないといけない。子供を生んで初めて何とかその家に馴染むというところでしょう。
過去も現在もアメリカの大統領がバイデンになったとしても、つらいことは変わりないようです。
歴史家が小説風に、物語風に煬帝について書いたものです。だからそれぞれの登場人物のセリフも歴史的な事実に基づいて書かれたものだと思われます。
昨日「立皇嗣の礼」が行なわれました。日本では歴史上はっきりとわかるのはおおよそ1500年前から天皇家が続いているということです。中国では長くて300年間くらいの王朝しかありません。無頼漢や軍人などが成り上がって王朝を作りますが、創始者本人か、子、孫たちの女狂いや贅沢三昧で100年も持たない王朝がたくさんあります。面白いといえば面白いのですが、孔子が論語を作ったというのも、中国人の節操の無さを嘆いていたので、その戒めのためだったと思われます。
隋の創始者・楊堅は自分の娘を北周の皇太子の嫁にしていましたが、この皇太子が宣帝となり、20歳で死ぬと、北周の王族関連者を全て皆殺しにし、隋を作ります。楊堅とその妻独孤氏は北周の性的乱れから国が亡びたということを見て、第二夫人や妾を置かず、二人だけで5人の男のこと5人の女の子を育てています。楊堅はそれなりに慎ましく生きていたのですが、息子たちは違います。贅沢に慣れて、女狂いもします。妻の独孤氏は長男より次男(後の煬帝)を好いていました。というのは自分が長男にあてがった嫁をないがしろにし、やがて嫁が病死すると、自分で別嬪を探し嫁にします。そういうことで長男が気に入らなかったのです。やがて独孤氏と煬帝と大臣楊素と組んで長男が謀反を企てているといって長男を幽閉します。やがて父の楊堅が死ぬのですが、これも煬帝が殺したのではないかと噂されています。二代目のなった煬帝は自分の兄弟に難癖をつけて殺してしまいます。まるで創始者の楊堅が北周の王族関係者を皆殺しにしたように、孫に至るまで男子を全て殺してしまうのです。やはり子供は親がやっていることを真似るということでしょう。やがて煬帝は自分の警護兵に首を絞められて殺されます。権力者ほど孤独なものはいないようです。失職しそうなトランプ大統領も悪あがきをしています。煬帝も皇帝らしく毒杯で持って死なせて欲しいと願いましたが、毒杯が見当たらないものですから、刀で殺すよりは一等減じて首を絞められたのです。
ちょっと前までは、日本では社長と平社員との給料の差は取り立てて問題あるようなことはなかったのです。ところがゴーン氏が現れ、年の給料が10億円を超えるということになって、欧米の人間の格差がひどいものであるとビックリさせられたものです。それ以降日本の経営者も恥じらいもなく、自分の給料を吊り上げてきたようですが、それにしても何万倍もある格差に違和感を持ちます。給料からしてこのような差があるということは、ヨーロッパの身分制度とキリスト教から来ているとこの本では示しています。王族とその他、キリスト教者とそれ以外、峻別に分けられています。欧米では現在もそうですが、過去も上位数%が国の大半の富を手中にしています。この本では「断絶論理」という言葉を使っています。唯一まともな人間は王族とキリスト教者だけであるということです。それら以外はそれらによっていかようにも扱っていいものだと聖書で示され確信しきっています。
「・・・あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたのための食料になるであろう」(旧約聖書)
もともと牧畜系のヨーロッパ人は家畜の取り扱いに手馴れています。豚の頭や鶏の頭もその形が残っているままの料理が出たりします。日本だったらもどすでしょう。彼らは平気です。そのくせクジラがかわいそうと言ったりするのです。わけがわかりません。
ヨーロッパでは王族からクズだと思われていた人間たちがアメリカ大陸に渡ります。クズだと思っていた人間はアメリカインディアンを見て、断絶論理が目覚めます。インディアンは人間のように見えて人間ではない、一見人間のように見えるから、捕って家畜のように食うこともできない。この大陸で唯一の人間はキリスト教者である自分たちしかいない。インディアンは家畜にもできないから虫けらのように殺すしかない、こうした論理でアメリカインディアンを根絶やしにします。この断絶論理が、アウシュヴィッツ、日本への原爆投下、ベトナムの枯葉剤散布につながります。
最近ヨーロッパでもアメリカでもコロナの影響でアジア人に対するヘイトの激しさを増しているようです。白人種にあるこの「断絶論理」はいまだに残っていて、彼らの性格の一部をなしていることに間違いないようです。