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一つは漢の文帝の時、文帝の太子と呉の太子が酒を飲みながら将棋をし、ケンカになり、文帝の太子が将棋盤を投げつけ呉の太子を殺したという事件がありました。宮崎市定の解説によると、これは単なる個人的な争いではなく、漢王朝が成立して30年ほど経つと、「漢王朝に対抗する反対勢力が次第に台等する形勢を示してきた」ということで、「殊に南方の呉王濞との関係が険悪」になっていて、この事件はその延長の中にあったということです。
もう一つは「魏公子列伝17」にある信陵君と兄に当たる安釐王が将棋をしていたとき、国境の司令官から、趙王が自ら軍隊を引き連れて侵入してきたという連絡が入ります。兄の安釐王は慌てますが、信陵君は狩をしているだけですと言って、平然と将棋を指し続けます。兄も仕方なく付き合っていましたが、また司令官から連絡があり、信陵君の言ったとおり、狩をしていただけだということがわかりました。信陵君には食客が多くいて、その一人がスパイのようなものであり、趙国の事情を良く知っていたということです。
将棋は酒を呑んでやるもんではありません。ミスも起こるし、気が荒くなってけんかになるのは当たり前です。呑まないでも将棋は争いごとであって、自制しないとすぐ暴力沙汰になるのです。私の店でも将棋をしている人がケンカし、私は証人として調書をとれられました。一人はもう死んでこの世にいませんが、もう一人はまだ生きているでしょう。結局事件にしないで和解しましたが、私ともう一人の客の目撃者は朝の4時ごろまで新天地交番で調書をとられました。
宮崎市定は典故学者と違って歴史学者ですから、歴史の流れで孔子を見ています。BC500年頃生きていた孔子は、今で言うところの、香典の包み方をコーチしてくれるマナーの教室○○女史とも言え、また学生の就職に奔走するゼミの教授だとも言えます。孔子から300年して漢の時代になり、その漢時代の400年で、孔子の弟子たちの聞き語りが教本になり儒学が完成されます。孔子が死んで長くて700年もたっているので、文章で意味のはっきりしていないところや、漢字が間違っているのではないかというところが多々あります。それから中国では科挙が始まり、論語が試験問題に出されます。多くの受験生を落とすために、その時代その時代の試験官が論語の注釈を付けます。それらの注釈は時代を経るごとに複雑になり、こみいったものになります。典故学者はこれらの注釈の森に入っていくと、大概「馬鹿」になっていくようです。わき道だけをさ迷い、本道を見失っていると宮崎市定は言い、もう一度原点に戻り、孔子がマナー教室の○○女史であり、ゼミの教授であること思いいたせばおのずと、「学んで時に之を習う。また悦ばしからずや」も、単に復習するということではなく、弟子総出で、宮中の儀式を音楽付で再演していることになるのだと言っています。また文章で意味の通らないところは、形が似たような漢字に置き換え、意味のとおりを良くしています。「耕すや、餒その中にあり、学ぶや、禄そのうちにあり」(農業を一生懸命にすると飢饉がそのなかにある。勉強を一生懸命にすると自然に禄、俸給がその中から出てくる)これだと意味が取れません。餒が写し間違いの字であり、餧が本来の字であるということで、餧には飢えるという意味もありますが、食物という意味もあります。だから耕せば食物もできるし、学べば、金もはいってくるということですっきりします。
宮崎市定は信州飯山出身で、「村の小学校」、飯山の中学校、新設の松本高校、それから京大に入っています。飯山中学校3年生のとき、京都などに一週間の修学旅行をしています。当時では中学校へ行くのは少数ですから、ましてや旧帝大に入学できているということは、宮崎市定の家庭が貧しい家ではなかったということです。信州は昔から教育県でありましたから、子弟に高い教育を受けさせるということはありましたが、さすが大学まで行かせるとなると親の経済力がものをいいます。現在ではもっと激しく、子供を小さいときから金をかけて教育しないと東大などに入れない状況になっています。
ピカソの絵の値段の高さに納得できないような書きぶりです。ラファエロとダ・ヴィンチと比較して、生前多産的であったラファエロと比較してダ・ヴィンチは少ないことで、ラファエロの方の評価が高かったが、現在ではモナリザを見るために多くの人たちが美術館に訪れるということを指摘して、ピカソはすばやく絵を画いているが、果たして後生、その値段とつりあうかどうか疑問を呈しています。
宮崎市定は戦前フランスに留学しています。フランス語をマスターするために、シムノンのメーグレ探偵シリーズを読んでいます。この探偵のやり方が大いに歴史研究に役立ったということです。
「歴史学の研究にも、例えば古文書を虫眼鏡でのぞくようの科学的方法がある。それも確かに必要だ。しかしそれとともに、その時代、その社会の大局をまず把握して、現在研究中の問題をその中にどう位置づけるか、という立場から出発することが最も大切なことだと思う。個別と全体とがもししっくり噛みあわなかったならば、それはどちらかの見当が間違っているのだ。その際には改めて最初から出直すべきで、言葉のあやでこじつけようとするなら、もってのほかの僻事である。全ての問題に対する解答は最も明快に、メーグレ探偵の謎解きのごときであるべきだ」
先の「永楽帝」と並行して読んだために、二つがこんがらがってしまった。皇太子を幽閉したのは雍正帝の父・清の康熙帝であり、明の洪武帝は繊細な長男の早死にで、四男の燕王後の永楽帝が次期皇帝にふさわしいと思っていましたが、孫可愛さのために孫を皇太子にし、洪武帝が死んだ後、すんなりと孫が皇帝になり、建文帝になりました。建文帝のブレーンが政権を確固たるにするために、叔父たちの粛清を提言します。父に似て武人ではなかった建文帝は余り叔父たち争いたくはなかったのですが、ブレーンに押されて粛清を始めます。燕王後の永楽帝は父親が子供の中で一番皇帝にふさわしいと思っていたくらいですから、結局甥の建文帝は叔父の永楽帝の返り討ちに会ったのです。
明の後にできた清は満州族が作ったものです。太宗、順治帝、康熙帝にいたり、康熙帝の長男が早死にしたので、二男が皇太子になりますが、この二男のもとに多くの人が集まり、父親をないがしろする風評がたったものですから、幽閉するのです。一回は許しますが、2回目になると、この二男は精神的におかしくなって死にます。毒殺されたとも言われています。康熙帝が死ぬ時、変なうわさもあります。彼が死に際に書いた名前は14世、つまり14番目の息子だったのですが、大臣降科多は一を削り、4世として、つまり4男が指名されたとして、雍正帝になったといううわさです。康熙帝は男女含めて30人以上の子供がいたということで、雍正帝は自分の身を脅かす男子の兄弟を根絶やしにしてしまいます。
雍正帝は朝の6時ころから夜遅くまで政務を取り仕切っています。中国民族を支配する異民族の王ですから、中国の役人など余り信用していないようです。各地にスパイを送り、その地の実情を報告させていました。中国の科挙制度とは役人天国で賄賂取り放題ということを知っていますから、悪質な役人をびしびし取り締まっています。そうはいってもこの巨大な国をただひとりの皇帝で取り仕切ることはできません。清朝末期のように賄賂なくして物事が進展しないようになっています。いまでも中国人のこの悪い癖は治っていないようです。
後継者の問題でどこの国でも頭を悩ましています。最近の日本では後継者不足が問題ですが、明の時代ではおりすぎて、兄の息子が二代目の皇帝・建文帝と、兄の弟の叔父とが戦って、叔父が簒奪してしまいます。甥の建文帝は妃ともに宮殿に火をつけて自殺したそうです。
明の創始者の朱元璋は飢饉で流浪した農民の子供です。養いきれないで寺に捨てられます。寺でも養われないので乞食坊主になって、あちらこちらとうろつき回り、紅巾の乱によってチャンスを掴み、あっという間に元を倒し、外来の皇帝ではない、真に中国民族の皇帝になります。馬皇后と間に数人の男の子が生まれ、それぞれ各地に派遣し支配を万全にします。長男は手元に置き、皇太子として育てます。ところがそうと決まったとたん、皇太子のもとには将来性をかって人が集まってきて、不穏な状況になってきます。それで朱元璋・洪武帝は皇太子を幽閉し、皇太子の資格を剥奪します。一度は許しますが、また同じような状況になって、長男は幽閉され、精神的におかしくなって死んでしまいます。やがて朱元璋・洪武帝が死ぬ時がやってきます。孫可愛さに次期皇帝に孫を指名して死にます。孫のブレーンたちはこの政権を安定するために、各地の叔父たちの粛清を始めます。何らかの理由をつけて追い落としをはかります。四男の朱棣(後の永楽帝)は始め恭順の姿勢をとっていましたが、反旗を翻し、明三代目の皇帝になっています。永楽帝は北ではモンゴルを何度も打ち負かし、鄭和を使って、アフリカ東海岸まで大艦隊を派遣しています。日本に対しても足利義満に日本国王の称号を与え、勘合貿易を許可しています。日本は明の家臣になったのですが、足利義満とっては儲かればよれでよかったのでしょう。
現中国の習近平の理想像は永楽帝ではないかと思われます。まさしく「中華」を表現しているのですから。