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「私は1835年にハレー彗星とともにこの世にやってきた。ハレー彗星は来年またやってくるが、私も一緒に去ってゆきたいものだよ。ハレー彗星と一緒にこの世を去らなければ、一世一代の悔いとなるだろうね。全能の神は明らかに言ったのだ」
まさしく1910年4月21日に亡くなっています。トウェインには三人の娘がいましたが、長女のスージーがまず亡くなり、次に愛妻のリヴィー、それから末妹のジーンが亡くなりました。トウェインを看取ったのはこの本の著者・次女のクララです。クララは音楽家と結婚して一女をもうけますが、トウェインの孫は自殺してしまいました。もはやトウェインのDNAを引き継いだものはこの世にはいないのです。
トウェインは大金をもうけた時もあり、破産しかけたこともあります。破産しかけた時住処をヨーロッパのイギリス、ドイツ、イタリア、フランスに移したりしています。我々から見ると何と優雅な夜逃げだと思われます。事実、どこにいてもトウェインは有名人であり、王族から招待もされています。召使も一緒について行っていますから、日本のような多重債務者の夜逃げと全く違うようです。トウェインの有名ぶりは、国王が通るというので横断禁止になっていた道で、トウェインを知っていた警護隊長がトウェイン家族を通したことでもわかります。日本ではこうはいかないでしょう。そうした気のきいた隊長がいても、その隊長はきっと懲戒免職になるでしょう。
ラジオやテレビのないトウェインの時代、最も歓迎されたのは「講演」です。トウェインもこれによって借金を完済したのです。講演者としてのトウェインはスター並みの扱いを受けています。講演料も高かったのでしょう。講演のためにオーストラリア、インド、南アフリカを回る世界一周の旅もしています。
トウェインはカネにはうるさかったといわれています。召使が馬車に乗ってその料金を高く吹っかけられたということを知って、トウェインはその御者を訴えて裁判したことがありました。その御者は免許を取り上げられてしまいました。当時としてはこのようなささやかなことで裁判する人はいません。その御者がトウェインに家族がいて免許がないと食えないのだというと、トウェインはすぐさま警察に掛け合って免許を取り戻させたそうです。破産しかけてカネのありがたさを身にしみて感じていたのでしょう。冷酷のケチケチ男ではないようです。