[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
日本の近代文学もそうですが、文学なるものをやる人は、やはり高学歴で親も裕福な子弟であるということがわかります。タイも例外ではありません。屋台の倅などその日の食い扶持を得るために精一杯で、虚構にさ迷い出るといった余裕などありはしません。生活に追い詰められることもなく、若い頃バルザックやディケンズなどを読み、それらを参考にして書いた彼らの読み物は、教養がにじみ出ていますが、これといったインパクトがあまりないのが特徴です。バルザックは借金まみれになり、コーヒーをがぶ飲みし、金儲けのために小説を書きました。筋を面白くし、読者に飽きさせないように書いています。ディケンズも親が貧乏し、家族ともども借金のため監獄に入った経験があります。面白い話を書くことによって本が売れ、カネを入ることを期待して、彼らは書いていたのです。彼らの努力の結果、作家は社会での一定のステイタスを得ることになります。それまでは今で言うところの、スキャンダラスなゴロ雑誌のライターみたいなもので、一歩間違えば取り締まりの対象になる連中のようなものです。それが19世紀20世紀になると、作家たるもの、社会に警鐘を鳴らす先進的な人物とみなされます。それで才気走った裕福な子弟がカネと有名を狙って、小説を書くようになります。ところがこれら高学歴の小説家は社会で辛酸をなめたことがないのですから、とおり一片のことしか書けません。作品の中で師たる欧米の人物の名を出したり、言っていることを引用したりして、仲間内で賞賛されたりしあったりしますが、内実空虚なことばかりです。
タイの小説を少し読んだだけですが、どうもタイでも小説は高学歴の手慰めものといった感じがします。別に小説を書かなくても、官僚として十分やっていけて生活には困らないという雰囲気がプンプンとしています。