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「読書は愉しみであるべきだ。名前こそ文学だが、文学は学問でなく遊びなのだ。だから読書の皆さんも存分に遊んでいただきたい」
楽しんで読めばどう読んでもかわないけれど、英米の文学書を読むためには、最低、聖書、ギリシャ、ローマ神話、シェークスピアくらいはかじったほうがいいと思われます。これら原典資料をたくさん知れば知るほど、解釈の幅が広がるというものです。すべての物語・文学は独立しているものではなく、根底には過去から連綿と引き続いた感情・思い・考え方があるからです。
トーマス・C・フォスターは演習として短編を取り上げ彼の解釈を載せています。題は「ガーデン・パーティ」といい、丘の上の大金持ちとふもとの貧乏人との物語です。その日金持ちの家では庭でパーティーの準備をしています。同じ日にふもとの荷馬車の御者をしていた男が蒸気機関に驚いた馬に跳ね上げられ死んでしまいます。金持ちの娘はパーティーをやめようと進言しますが、母親はパーティーを続行します。やがてパーティーは終わり、残ったサンドウィッチやシュークリームをバスケって詰めて娘に事故のあった家に向かわせます。薄暗い部屋の中で娘は死者と向き合います。で、最後は迎えに来てくれた兄と抱き合い、「人生って」といいますが、次の言葉が出てきません。兄の「そうだね、ローラ」でこの短編は終わります。
トーマス・C・フォスターはローマ神話、豊穣の神デーメーテール、その娘、ペルセポネー、それを略奪した黄泉の国の王ハーデースの物語を下敷きにしているといっています。神話の内容は、ハーデースがペルセポネーをかっさらい、黄泉の国に閉じ込めたので豊穣の神デーメーテールは嘆き悲しみ、まるで天照大神のようにその役割を捨てたので大地に食物が育たなくなります。それで仕方なくハーデースは六ヶ月間はペルセポネーを母の元に返し、六ヶ月間はハーデースのもとにいるという約束を取り決め、それで再び大地に作物が実ったという神話です。短編で娘が薄暗い死者のいる家に行くのは、黄泉の国であるハーデースに行くことと同じことで、少女が大人になるということは黄泉の国に行って、少女がいったんは死なないといけないのだということを意味しているのです。